私が消える日常
何かに集中している時、その時自分はどうなっているのだろう。
私がテレビを見ている時、私は光る箱の中の世界に溶け込む。
そこに自分はいない。あるのは、触れることのない色と世界と人。
けれど、やはり気づけば私はそこにいる。
この「気づけば」というところ、よくよく考えると妙な心地がしてくる。
テレビに没入する自分、意見する自分、明日の予定をぼんやり考える自分、得体の知れない感情に戸惑う自分。
この中のどれかが私だろうか。
それとも、全てが私なのだろうか。
考えたところでわからない。けれど、この正体不明の妙な感覚はハマり込めば抜け出すのに苦労しそうだ。
「浸りすぎることは危険だ。」
まるで何もかも知っている者にしか言えない語調で、誰かが警告してくる。
「あなたは誰?」
「私です。」
「私って誰?」
「私は私です。ではあなたは?」
「私は私です。」
あなたと私を分かつものを、体感にしか見出すことができない。
これは不安なことだろうか。
恐ろしいことなのだろうか。
世界は文明を広げるために人間を歯車に変えた。甘んじて歯車になった人間、そうでない人間。何に抑圧されているのかその正体は「社会」という一言で明らかにはならない。
規則正しく、歯車になり機械的に人間という仕事をこなしていく日常に、手に入れた対価と共に失ったもう一つの日常の姿が明滅する。
私が消えていく日常の中で、それを見出そうとする言葉が生まれている。それは歯車の自分に対しての静かな抵抗なのだろうか。
機械的な自分に対しての、自我の反抗。自我に対しての遥かなる高みからの警告。宣託。
そうしてまた規則的な歯車に還っていく。望む望まないに関わらず、私はきっとまた歯車であることを余儀なくされる。
それが取り巻く世界のルールなら、受け入れなければ追放される。追放されたくなくば従うしかない。
習慣はいとも容易く日常を侵食する。侵食した日常は、既にもう日常そのものへと細胞を入れ替える。
だが、そんな日常にあってもなお聞こえてくる声。宣託。
「私はここにいる。」
懸命に伝える声。ある時は警告であり、願いであり、祈りであり、叫びであるそれは、機械になったつもりの自分に「人間の心」を思い出させようとする。
私が私であること。私が誰なのか、私が私とは何を言っていることになるのか。
得体が知れないその感覚は、ともすると切実な誰かの叫び声なのかもしれない。
その声に悪意はない。恐れを抱かせるような様子はない。
赤子が母に触れてもらうことを願うように、あまりに切実で真摯な、たった一つの私の声、あなたの声。あなただけの声。
その声がする方を見やると、不思議と温もりがある。微かだが遠くの方で灯が灯っている。
その灯があるから私は生きていける。
私は私の声のため、あなたはあなたの声のため、そのことを思うだけで生きていける。
決して消えることのない私に、全幅の安心を委ね眠りにつく。