「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

半年ぶりの

半年ぶりにブログを更新する。

癇癪を起こしそうになるほどの暑さは過ぎて、身を丸くするほどの寒さが少し落ち着いてきた。


懲りもせず、僕は書いている。




過去記事を読むと、半年前の自分は色々と精神的に参っていたんじゃないかと思える。


でも時折、妙に理想的なことばかり言ってみたり、妙に現実的になったりする。ああいう浮き沈みは、内科では診てもらえない類の患者に近い気がする。



そもそも、思い返してみれば、いつの間にか僕は病的な性質を持つようになっていた。いや、病的と言うことで安心したいだけか。


病気であれば仕方がない。社会とうまく折り合いがつかずとも、人間関係が拗れても、「病気のせい」だから仕方がないのです。



そう思いたかった。

けれど、残念ながら僕はそれほど重い病気ではない。恐らく医者に罹っても、せいぜい「軽いノイローゼですね」と言われて安定剤を処方されるに留まるだろう。


あるいは、カウンセリングを受けて、現在を説明付ける過去の因縁を強引に掘り起こされるだけだ。



そんな心理学的な説明をされて納得が行くなら、カウンセリングを受けてみたいとも思う。しかし、もしそんなに簡単に心を分解して示すことができるなら、どうして患者は一向に減らないのだろうか。




この半年を経てもなお、僕は僕のまま変わりがない。変わったことと言えば、年齢が一つ増えたことぐらいか。



大人になるとはどういうことか、未だによくわからない。年を取れば大人になれると漠然と思っていたが、実際には身体が老けて、気持ちが薄らいでいくばかりだ。



侘しいような「秋」が、今の自分なら、これから歳を重ねていけば、そこに吹く風は、どんなものになる。





淡い期待の風が時折吹いた時、息をしていることを思い出す。柔らかな温度を感じると、全身が泡立って目を覚ます。その感覚は本物なのに、どうして偽物を求めるのか。