「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

美しい花がある、花の美しさというものはない

美人とは何か。それは容姿が整っているということだけではない。容姿が整っておりかつ多くの人に「美しい」と思わせる何かを秘めている人のことだ。

 

 

 

遺伝子には当然ながら個体差がある。人それぞれの容姿にも違いがある。肌質や髪質の違い、骨格の違い、目の大きい人小さい人、一重に二重、鼻が低い人高い人、顔のパーツの構成の違い、身長の高低、上半身と下半身のバランス、性シンボルの差etc.


それの意味するところは、その「差」である。違いは違いでしかない。そこには事実しかない。それぞれの違いがそれぞれの唯一無二の人間を形作るピースになる。

 

 

 

人間がそこに「美しい」という概念を見出す。

 

「美しい花がある。花の美しさというものはない。」

 

花そのものに美しいという情報があれば、全ての人がその花を見て美しいと思うだろう。けれど、その花を見て美しいと思わない者もいる。

 

花が美しいから美しい花があるのではない。花を美しいと思う心があるから、美しい花があるのである。

 

 

 

私たちは「美しい」という概念を、花を見ることで創り上げるのである。むしろ、創り上げるというより、花を一眼見た一瞬にその人の中に「美しい花」が生まれるのである。

 

この構造が指し示すことは、「美しい」ということ自体が私たちそれぞれの中に秘められた「概念」であるということだ。そしてそれは共通の概念ではない。あるものを美しいと感じる人がいても、それを美しくないと思う者もいる。美人と持て囃されるある人を見て「やはり美しい」と感じる人もいれば、「容姿は整っているが美しくはない」という人もいる。

 

 

「美しさ」の本質は常に個々人の中にある。どれだけ世間が「美人」とはこういうものだと広報して見せても、やはり個々人の中に「美しさ」は別にある。そしてそれはその当人にも預かり知らない引き出しの奥に仕舞い込まれている。

 

だからふとした時に、道端に咲く花に目を奪われる。花が咲いたような笑顔に心奪われる。

そういう時、「美しさ」が生まれている。遠い遠い記憶の底から、まるで時が止まったかのようにその美しさの前では沈黙するしかなくなる。

 

 

 

美人には特権があるのかもしれない。その人を美人と決める人があくまで多いのなら、その人はその人が持つ「美しさ」によって多くの人の心を奪い惹きつけるだろうから。

 

だがその違いが、特権と呼べるほどのものなのかはわからない。美人と呼ばれることが多いその人は、単にそう呼ばれることが多いというそのことによってそうとしかあれない人生を生きることになる。その中で得る恩恵がどれだけ多くとも、その恩恵はその人の努力で得たものでもなく、その人が生み出したものでもない。ただ単にその人がその人であるということだけによって得られる恩恵に過ぎない。

 

 

金持ちの家に生まれれば、金に困ることはない。どうせなら金持ちに生まれたかったと思う人もいる。けれど、金持ちに生まれた人間は、金持ちに生まれた人間としてしか生きられない。貧乏に生まれた人間やその他の人間の生きる人生を生きることはできない。

 

 

それに美人であることや金持ちの家に生まれることが、必ずしも幸福であったり良いことであるとは断言できない。なぜなら、全ての人間の生は個別的だからである。私たちが想像する「美人の人生」や「裕福な家の人生」とは、広報された情報に基づいた妄想に過ぎないからである。私たちは、誰一人として自分と同じ人間が過去現在未来に渡って存在しないことをどこかで忘れている。私たちの周りに存在するのは、「美人」でも「金持ち」でもない。そこにいるのは「その人」である。

 

 

 

生まれつき顔の皮膚が変形している人もいる。それを世間では「病気」と呼ぶが、その人間のことを「病人」と呼ぶことはしない。

あるいは「病人」と呼ぶのなら、その人の目に写っているのは「病人」であることになる。しかし、その病人が病人である以前に1人の人間であるということを失念していなければ、そんなことは言えない。

例えそれが先天性の病気によるものであっても、その人の肉体や精神の全てがその人を形作る全てであるという事実は決して揺るがない。

そして、その人に病名がついたとしても、私たちの想像し得ない容姿をしていても、人間であればやはり「その人はその人」に違いない。

 

 

これ以上どれだけ人に看板を貼り付けグループを分け差をはっきりさせたところで、その人はその人でありその人であることで既に完成している。

 

そこに概念を見出す人間がいるだけである。それを「好きだ」とか「嫌いだ」とか「美しい」とか言う人がいるだけだ。

 

 

 

「美しさ」というものについて、数多の詩人が賛美の詩を謳ってきた。私たちが詩人ならば、現れた美しさの前に沈黙し、その沈黙に耐えきれず詩を謳うだろう。

 

私たちは美しさの前では、何を言うこともできないから沈黙する。けれど、沈黙するに耐えきれずにそれを何かで表現したい欲求に駆られる。言葉によって表現する詩人はその言葉によって美しさを自分の中に留めようとする。私たちが美人に近づきたいと思うのも、彼らと接することで自分自身の中に美を留めたいという心の現れなのかもしれない。