「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

将来の夢は

子供の頃何になりたかったのか。今でもはっきりと思い出せるのはいくつかのことだけ。

 

小説家になりたい。そう思ったことがあって、気づけば「将来の夢は」の欄には小説家と書かれるのが普通になっていった。

 

それでも一度たりとも本気で小説家になれるだなんて思ったことはなかった。だから、文学にはこれっぽっちも関係のない大学に行き、仕事についた。まずは暮らしていくことができるどうか、そのことに対する不安の方が余程重大なことだったから。

 

人に馴染めるだろうか。社会でやっていけるだろうか。忘れ物が多くて、責任感が薄くて、何をやっても不器用な自分が、社会人としてやっていけるだろうか。人と仲良くできるだろうか。

 

根底にはいつもそんなことへの不安が頭をぐるぐるとしていて、夢を抱くとかそんな余裕もなかった。気づけば小説家という夢は、「夢」という文字は遠い宇宙の彼方の星と同じくらい夢みたいなものへと化した。

 

それでも一度たりとも、夢をバカらしいと思ったことはなかった。だから、人が夢を語っている姿は好きだったし、自分でも夢を思い描こうとすることは好きだった。

 

夢が叶うにしろ叶わないにしろ、「夢」という言葉を忘れたことはなかった。夢何て子供っぽいだとか、必ず持つべきだとかは思わず、ただ何となく夢という言葉には逆らえないような自分だけがいた。

 

 

夢と聞くと、昨晩見た方の夢にもなるけれど、実際の夢の方とその夢の方との違いなんてないようにすら思えた。それは変だけど、何となく、夢というのはそういうものだと思うようになっていった。

 

そんな自分がなぜ改めて将来の夢について考えでいるのか。それは自分でもあまりよく分からない。よくわからないけれど、そういうことを考えなくてはいけないような気がした。

 


夢は儚く散るもの。夢に対してのそういう感性が自分にはあって、きっとこういった感覚は誰にでもあると思う。

 

桜が儚く散る様を見て人が何を思うか、聞いたこともないので分からない。けれど、僕はそれを美しく思うし、その余韻を忘れた頃になってまた桜は新たな花をつける。

 

もし夢が儚く散っていくものなら、またいずれその花を咲かせるのだろう。そんな感慨があって、そう思うと何だかいつまでも花を咲かせる気のない蕾は、季節が来るたび何を思うのかを考えたくなった。

 

隣の蕾たちは一心に花を咲かせている中で、何年も咲かずに蕾のまま終わってしまう自分。そういう自分の運命を知って、一体蕾は何を思うのだろうか。

 

僕はまるでその蕾のようだ。僕にはその蕾の気持ちがわからない。わからないけれど、その姿は何だか寂しそうで、侘しくて、居た堪れなく思う。

 

でも同時にこうも思う。


僕はその蕾を見てきた。他の花が毎年花を咲かせているその中で、たった一つ花を咲かせることができないでいたその蕾を。来年こそは再来年こそはと待ち構えてみても、焦げるような暑さが来ても、凍えるような吹雪に見舞われても、春が来るのをただそこでじっと待っていた。健気に、確かに、力強いその生命で。

 

 


そんな蕾が花を開いた時、その花はどんな色をしているだろうか。どんな形をしているだろうか。見物人の興は買わないかもしれない。あまりよく出来た花弁ではないかもしれない。

けれど僕は見てきた。その蕾が何年何年も堪えてきた時間を。その蕾の健気さを。

 

もしその蕾が花開いた時。僕はその蕾がどんな顔をするのかを見たい。どんな気持ちであったかを知りたい。
僕は一生、その蕾のことを想うだけで、気分が良いに違いない。