「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

感情の吐露がブームの時代

最近の歌の歌詞は非常に直接的だ。

そして感情的だ。いわゆるエモいと言われるもので、そういった描写が増えたのはここ最近に始まったことでもないと思う。

 

 

そもそも万葉集だとか、あの辺りの時代から色恋沙汰へのあれこれの情や何かと感傷的になる気性は日本人に受け継がれているものなんだろう。

 

 

いわば、純粋な感情の吐露が、今ブームになっていると思っている。

 

 

歌に限らずとも、物語などもそうだけれど、何となく感傷を極めたようなものが多い。お涙頂戴とはよく言うけれど、そういう安い空気をどこかに感じて白々しい気になって時折我に帰ることがある。

 

 

同じように白い顔で思っている人もいるだろう。けれど所詮人間。所詮人間とは、所詮人間ということだ。それ以上も以下もない。感情を消すことなどできない。押さえつけることもできない。押さえつければ爆発する、不満が充溢して精神のタカが外れておかしなことになる。ならばいっそ吐露してしまえばいい。それが健康的で人間らしさである。そういうのが今の風潮だと思う。

 

 

そして、全ては人間らしさとか所詮人間とか言うことに集約されて、幕を閉じてしまう。誰もその先後を考えない。

 

 

 

みんながみんな自分を見ている。自分のことばかり考えている。利己主義などという次元でなく、それはもう一種の信仰と言ってもいい。

皆が皆、自分の価値観を吐き出すことに何の躊躇いもない。それどころか、却ってそれが大胆な結果であればあるほどに評価されるから抜け出せない。それが良いものだと思うしかない。そういう世界に生きている所詮人間ならば。

 

 

けれど、一歩外に外れて、道端に倒れ伏している老人を見たり、雲の動いていることを思い出したりすると、段々と自分の価値観というのが白けてくるのがわかる。

 

 

自分が、私が、僕が俺がと皆好き勝手に言うが、果たしてそれほど自分のことが大事か。

自分に大事なことなどあったか。

 

 

 

それでもあちこちで、私の苦しみをわかってだとか、自分と共感して欲しいとか、そうやって人が依存し合っていくことが必要だという論調が交わされる。空気がある。その空気が私の思い違いならまだしも、実際はどこかで私たちは自己を認めてもらうことで充足しようとしていることを完全に否定しきれない。

 

 

 

かと言って全ての根本である自我を消そうとすれば、トルストイのような最後を迎えることになる。それは嫌だと言っても、どうすればという展望もない。

 

 

ならば好き勝手に生きればいい、となる。そうやってみんな好き勝手に自分を発信して、自分を売り込んで自分を買ってもらおうとする。これではまるで、身売りと同じだ。それは言い過ぎとしても、そうした自尊心や承認欲求と引き換えの売買の安易さを感じずにはいられない。

 

 

 

それ自体が個人の自由として、ただ個人の自由と個人の自由がぶつかり合い、共感し合うことばかりで満たされることに進歩がある気がしない。進歩するのが科学の方で、このままでは享楽的な万葉集の世界から一向に抜け出してこない。

 

 

でも、それでも良いと思うからみんなそうしているのだろう。そうやって享楽的に暇を潰していくことが良いと思っている。それもまた一つの真実かもしれない。それにそう思う人の気持ちもわかる。けれど、享楽はいずれ終わる。終わるその時になって、都合よく纏めてしまおうという魂胆は解せない。

 

 

 

人は自分の内側に引きこもる。その傾向がより顕著になってきたように思う。

けれど、所詮人間。いずれは自分は五体満足であって五体不満足であることに気づく。

そうすると、もう俺が俺がとは言ってられなくなる。そんな幼稚なことばかり言っていては、進歩などしない。そして進歩をしたという思い込みを知って、そしてようやくそこで何かを見る。進歩というものを知る。そういう葛藤を経なければ、どんな感情の吐露も、ただ自分を慰め共感者を募り依存症患者を増やすものにしかならない。

 

 

 

そしてそれもまた一周する。
同じように気付く。繰り返していく。するとまた違うものが見えてくる。

 

 

 

 

 

感情を吐露することなら動物にでもできる。どれだけ細かな感情表現をしようが、技巧的にしようが変わりはない。そこには子供の純粋な美しさのようなものはあるけれど、子供の心のままでは何もわからないままだ。

もし目と耳があるのなら、そこで見えているものと聞こえているものがあり、そこに自分があるということを、遠巻きに見るような心持ちを持てると、そこに何かがある。

 

 

 

 

ただ、結局は時間というものがあるとする世界ならば、いずれ勝手に変わっていくものなのだろう。ブームが過ぎれば、また次のブームがやってくる。人間も阿呆ではないから、その連続から何かを見出したいと、本当の安息を求める気になるかもしれない。ならないかもしれない。つまりは、そんなことはもうどうでもいいことなのかもしれないということになるのかもしれない。どうとも言えない。けれど、どうとでも言える。