「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

決して忘れてはならないこと

日々をなんとなく過ごしていると見過ごされる多くの事の中に。決して忘れてはならないようなことが混じっているというのは、よくあることだと思う。

 

 

多くの人がその日その日を生きることで精一杯で、少し気を抜いてしまえばどこか崩れ落ちそうになっていることを私は知っている。

 

 

少なくとも、人の簡単に壊れる脆さを知っている。簡単に堕ちていくことのできる突発さを知っている。そしてその瞬間があまりに一瞬に訪れることも。

 

 

大人になっていくたびに、生き方が雑になって、ものの考え方もざっくりする。それは様々な闘いを経た後の成果でもある、単純な答えの一つだ。けれど、あまりに疲れた心は、あまりに簡単にし過ぎてしまう。そうやって心に蓋をすれば、いずれはその中から溢れ出てくるものがあることをどこかで知っている。

 

 

 

だから時々蓋を開けて、いらないものを吐き出して、中身の液量を調整しなくてはならない。心のメンテナンスだ。私は言葉を吐き出すことで、少しばかり心の容量を軽くする。人によってそのやり方は様々だ。

 

 

日常が安定してくると、思考や行動も安定してくる。けれど、その安心に甘えすぎると、今度はいつまでも同じところに対流することに慣れてしまう。それでは心は鈍り、感じれることも感じられなくなる。

 

 

そんな機会がそこら中に潜んでいる「生活」で、私たちにできることはそう多くはないのだろう。それにこれと言ってやるべきこともないのだ。それがわかっているから、私たちはなるべく忙しくしているのだから。そうでなくても私たちは、この浮ついた大した理由のない毎日を、出来るだけ忘れたいと思っているのだから。

 

 

出来ることなら振り払いたい。妄想に自分を浸すという幸福感で満たしたい。けれど、夜眠りに着くたび、朝目覚めるたび、私は私から逃れられないことを知る。逃れられないどころか、私ははっきりとここにいて、私がこうして考えることも私がなくてはできないという最も普通なことを知らしめられる。

 

 

 

だが、決して忘れてはならないことはそこに含まれている。私たちが逃れられないこの私というものこそ、私たちにとっては変えがたいなによりも確かな真実だということ。

 

 

 

なるべく柔らかい心でいたい。硬く角ばった心は何ものも寄せ付けず吸収し得ない。世界は歪み、色は濁り、美しさは汚される。そんな世界を見ていたくない。