「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

美人という特権

美人を見かけると、つい見てしまう。

その子供のように純粋な瞳の輝きに、彼女の汚れのない美しい心を期待する。

漆黒のダイヤを思わせる艶やかな髪。引き寄せられるような豊満で血色の良い唇。

純白の絹のようにきめ細かい瑞々しい肌や色香漂う艶かしい肢体の美しさが、完成した人間を思わせる。

天使のような微笑みに触れれば、たちまち僕の中で彼女は神聖化され淡い光のヴェールに包まれる。

そのヴェールが、彼女と私との差を歴然とさせる。人間としての質の違いを思わせる。美人を前にすれば、私はつぎはぎで作られた不恰好な人形だということを思い知らされる。私の持つそんな劣等の色など、彼女の姿に何一つ陰ることはない。

 

 

それほどまでに眩い光を放った人を、美人と呼ぶ。ただ容姿が優れているという域を飛び越えた者だけが持つ異彩。これを美人の特権と呼ばずして、何と呼ぼうか。

 

 

 

 

毎朝起きて鏡台の前に立つ。寝ぼけ眼の下にはうっすらと陰りが見え、まとまっていない髪の一本一本には張りと艶がない。鏡に顔を近づければ肌には弾力もハリもなく、やつれた肌はどこか乾燥しきった瘡蓋を思わせる。苦し紛れに笑ってみると頬は無理矢理に引っ張ったみたいにひしゃげて皮が伸びた。

 

見れば見るほど起伏の少ない山と谷に、凹凸と変色が多い大地ばかりが続く。そこには、青々と茂る深緑の景色も、美しい華も見当たらない。

 

こんな大地に焦がれる人間はいないだろう。

テレビをつけると、私よりも肥沃で豊満な大地を持つ人たちが笑うごとに華を咲かせ、彼らの吐き出す空気で空間全てが澄み渡っているようにさえ見えた。その笑顔は私のそれよりもずっと人間に見えた。彼らの顔の方がずっと人間らしく写った。

 

 

 

 

幼い頃のある時から、私は人の容姿について違和感を覚え出した。A子ちゃんはB子ちゃんより美人だった。A子ちゃんの周りにはたくさん人が集まって、B子ちゃんに話しかけようとする人はA子ちゃんに比べて明らかに少なかった。

決してB子ちゃんが捻くれていた訳でも、嫌われていた訳でもない。むしろ私はB子ちゃんの方が親しみやすく話しやすい気がした。それでもA子ちゃんの周りにはいつも人が集まっていた。

 

けれど、何故そうなるのかの理由をある時私はほとんど直感的に理解した。A子ちゃんは綺麗だった。何がどう綺麗なのか、美しいなんて言葉の意味も知らなかった。それでも何か、A子ちゃんはB子ちゃんにはないものを持っていた。私はそれを直感的に理解した。そしていつしか美しいものには価値がある。そう思うようになった。

 

美しいというただそれだけのことで、人を幸せな気分にさせることができる。美しい人は生きているだけで誰かを幸せにできるのだ。みんなB子ちゃんといるよりも、A子ちゃんといる方が幸せな気持ちになれるのだ。だからB子ちゃんよりA子ちゃんの周りに人が集まる。だから人気者のK君は、B子ちゃんには素っ気ないけれどA子ちゃんには優しいんだ。

 

そう思って世界を覗いてみると、担任の先生も体育の先生も、他の保護者たちも、みんなA子ちゃんには優しいような気がした。まるで、A子ちゃんがA子ちゃんであるというただそれだけで、何か優れているような感じだった。考えてみても、B子ちゃんの方が話していて楽しいし賢くて成績も良かった。運動神経も良いし、真面目で優しかった。それに比べてA子ちゃんは、それほど目立って得意なこともなければ、話が特別面白い訳でも、賢い訳でも運動神経が抜群な訳でもない。それなのに明らかに周りの友達や男の子や大人の先生ですらB子ちゃんとA子ちゃんでは接する時の態度が違う。見た目が良いというただそれだけのことがこれほどの違いを生むんだ。そう思ったことをよく覚えている。

 

何故そんな直感が湧いてきたのか、はっきりとは説明できない。気づいた時には「美しい人」と「そうでない人」との間に差が生まれていた。

あの子は美人だけど、あの子に比べたらそうでもない。いやいや、あの子の方が美人だよ。

そうやって美しさの比較競争を繰り返して、いつしか美人であることはそれ自体が大きな特権であると思うようになった。

 

それと同時に、自分でどう意識したところで、「美人」と「美人でない人」ならどっちが良いかと聞かれて、「美人に越したことはない」と思うこと自体に抵抗もなくなっていった。

 

 

 

 

そこからまた時間が進んで、その価値観を持ったが故の罠に自ら掛かることになった。

美人の特権を認め、自分を相対評価する癖が付きすぎたせいで、自分の容姿の醜さが気になった。

 

周りからどれだけ容姿のことを良く言われようと、悪く言われなかろうと一度気になり出したことをやめるのは難しい。

 

私はその頃から鏡を見るのが怖くなった。外に出れば、みんなが自分の容姿を醜いと思っているような気がした。人の視線が異常に気になり、一時は人と視線を合わすことが出来なかった。

 

どうしてこんなことになってしまったのか。全て自分の自意識過剰のせいだと思った。「人は周りの人のことは案外見ていないもの」だと思いながら、美人をやたら煽てる先生や父親や友人を見て自家撞着に陥った。

 

学校を卒業して社会に進出すると、容姿の問題はあまり気にならなくなっていた。それでもあの時に覚えた矛盾に対しての答えは見つけられないままだった。

 

 

久しぶりの家族との食事中、テレビに出演する女優に父が「あの子よりあの子の方が美人だよね」とこぼす。同調する母。確かにと思う自分に、それが一体なんなんだと思う冷めた自分。

 

「あの子は美人だけど、色気がないよね。」

「あの子は美人だけど、サバサバした性格みたいよ。」

 

私は適当な相槌を打って箸を嘴のように食事をついばみ続ける。ああそうか。美人というだけでその枕に「美人だけど」が付くのか。美人は美人という特権と引き換えに、美人というレッテルを貼られるのか。何をやっても、何を言っても、「美人が」になる。「不細工が」と言われるよりはマシかもしれないが、その時の私には一体何が良くて何が悪いのかなんてことはよくわからなくなっていた。美人に特権があるなんてことも、実は自分が思うほど良いことではないように思えていた。