「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

僕はいつかすごい人になれると思っていた

子供時代の写真を見ていると、今よりも賢そうな少年が、希望を目に湛えたままこちらを真っ直ぐと見つめている。

思えば少年時代の私は、不勉強であったが、漠然と自分もいつか凄い人になれると思っていた。

私にとっての凄い人は、最初は父親や兄だった。四つ上の兄は、私よりも勉学の才があり、運動の才もあった。父親もまた、その兄の数十年後とばかりに何をするにも優秀で、密かに自分と比べては落ち込んでいた。

それでもいつかは、兄や父のようになれるのだと漠然と信じていた。兄や父のように何でもできる人になれると思っていた。今はまだその時期じゃないのだと。

そうこうしているうちに、大人の階段を順調に登っていった私には、読書をすることと、少し変わった発想を持つことと、人に優しいということだけが残った。依然として兄や父のような何でもできる人にはなれなかった。

勉強にも集中できなかった。何故勉強をするのかもわからなかったし、絵を描いたり、自分の想像の羽を広げていることの方がずっとずっと楽しくて、辛いことはなるべく避けてきた。

運動も相変わらず苦手だったが、唯一好きなスポーツであるテニスを通して克服しようとだけはした。勉強は、学年一位になろうと一念発起しては、勉強のあまりの退屈さに諦めた。

そうしたことを繰り返していくうちに、どんどんと周りと比較して自分ばかり劣っているような気持ちになってきて、学校に行くことも嫌になってきた。

勉強も運動もできない、面白いところのない自分を人前に晒すことが恥ずかしかった。あれだけ人が溢れている場所にいながら、孤独な気持ちはより一層膨らんでいた。

そんな時、学校にいながらそんな孤独感を埋める方法を覚えた。その頃だったと思う、授業中や休み時間にひたすら本ばかり読んでいたのは。

小説を読んでいる間、私はその世界観にひたすら没頭した。時には、授業の声も聞こえなくなり、自分の心臓の音だけが聞こえるようなこともあった。それだけのめり込んで、自分の周りの恥ずかしい現実を忘れようとするかのように、物語にのめり込んだ。
次第に読書仲間もできて、本を読むことで自分の生活自体も好転してきた。父には、兄は本を読まないが、私はよく本を読むから偉いと褒められ、読書感想文では入賞し、人に文章を褒められるようになってからは加速度的に読むようになった。

しかし、変わったのはほんの少しの日常で、残りのほとんどはやりたくもない勉強と、やりたくもない激しく運動と、妙に緊張して不安になる学校生活だった。

そしてまた何度も学校を休んだ。時には熱が出たフリをして休んだり、学校に行ったフリを母親にしたりした。今思うと、あの時の行動はとても自分勝手だけれど、未だに学校に行きたくないあの時の気持ちは思い出すことができる。

そのうちずる休みをしたことが母親にバレて、キツく叱られてからは、無理矢理にでも学校に行くことになった。少なくとも、ぐれて親の言うことを聞かないというようなことをする度胸はなかった。いつもいつも何となく怯えていた私には、何故行きたくないのか、何がそれほど嫌なのかを言う勇気がなかった。

いじめに遭っていたわけでもない。特別不遇な環境にいたわけでもないのに、何だか学校生活を続けていくこと自体が当然のように決められていることに納得がいかなかった。そして、決められた通りにやるべきことをやれない自分が嫌でしょうがなかった。

長すぎた学生生活の間で、ついに私は父や兄のようになるべく頑張ることをしなかった。自分の思った通りに、自分のやりたいことをやっていく方が良いのだということに気づいたからだ。それでも依然として兄や父に憧れてはいた。頭もよくしっかりものの二人に。一方で女々しく優柔不断で間の抜けた私の顔が浮かんだ。この差は一体なんだ。何度も埋めようとしたが、埋まるものではなく、相変わらず自分らしくを続けた。

その結果高校では半分引きこもりのようになり、大学でもその状態は続いた。人と話をすること自体が、どんどんと苦手になっていた。持ち前の優しさも、大人になっていけば優柔不断の意味に変わり、私が辛うじて持ち合わせていた読書という取り柄も、いつしか引きこもり期間の間になくなっていた。もう半分以上のことは馬鹿馬鹿しくなっていた。かつての、漠然とした凄い人にはどうにもなれそうにないと思った。日に日に理想と現実の溝が深まっていった。

 

そして紆余曲折あって、今の私になった。未だに引きこもり状態は続き、部活がなくなった分、ますます他人と会っていない。人間関係の薄弱さから来る自分自身の薄っぺらさを、一人でいる間に何度も反芻した。何を考えてみても、時間が経てばすぐにどうでもよくなる。あるいは、自分の考えの浅さに、あるいはどれだけ上手く考えられたと思っても言葉の一つ一つが軽々しく嘘臭く感じられた。現実を真っ当に生きてこなかった、人間を真正面から見てこなかった人間の斜に構えた言葉のように思えた。


内省が虚しくなる度になるべく新しいことに取り組んだ。なるべく今の自分を壊してくれるかつ自分に生活を壊さない方法を選んで。
劇的に生活を変えてしまおうと思い実践したこともある。半強制的に環境に私を変えさせようとした。けれども、強制的に押さえつけられた生活の中で、自分の中の何かが爆発した。その爆発は私の身近な人を傷つけ、迷惑をかけただけで、私自身を一変させることはなかった。


気づけば私は哲学的なことを考えるようになっていた。あの爆破の前、確かに胸の中には哲学的な着想があった。全てとの関係を断ち、逃げれるところまで逃げてみよう。そうすれば何かが変わるかもしれない。何も変わらなければ、それが私の人生だ。その時はもうこの手で自分を終わらせよう。そう確信して疑わなかった。それでも時間が経つに連れて、全身から妙な汗が出ていた。逃亡犯の気持ちが体に乗り移って、私を何度かおかしな行動に走らせようとした。不安や後悔ばかりが募った。一方でこれでもう全てを終わらせられるという解放感もあった。
しかし一つの電話で、爆発は、第一弾の小爆発を皮切りに鎮火された。

 

「死」。その頃からはっきりとこの言葉がつきまとってきた。どこまでも追いかけてくる刑事のように、私は逃亡犯の如く彼から逃れようとした。けれども、止まってみたところで死はただじっとこちらを見つめるばかりだ。何のことはない。死を追いかけていたのは私の方だったのだ。


迷った時はいつも本屋にいた。出かけること自体に大変な労力を使う私にとって、唯一はっきりと行きたいと思える場所は本屋だった。ただ、その頃は本屋に行かなくてはいけないという強迫観念に連れられていただけなのだ。何かをしていなくてはいけない。留まって時間を浪費してはいけない。耳鳴りのような声だけが、私を突き動かしていた。

たまたま立ち寄った本屋で、当てもなく歩き回っていと、ふとあの言葉が目に入ってきた。あの忌々しくも懐かしい言葉が。
「死」
その本は、死について書かれたある女哲学者のエッセイだった。帯には作者の顔写真が目立つように載せられている。異様なほど目が離せなかった。その写真の女性の目が気になった。全てを見透かしたような目、彼女なら何か知っているかもしれない。そんな予感に、気づけばその本をレジまで運んでいた。


それからというもの、彼女の本ばかり読んでいた。目から鱗の言葉たちが、全身を震わしていくのを感じた。かつて、授業の音が聞こえなくなるほど熱中した頃のように、あるいはそれ以上に真剣に読書をしていた。数年振りの読書だった。


いつしか考え方そのものが哲学的になっていた。今まで考えてきたことの全てがそうであったかのように、私の中に哲学的精神が染み渡っていくのを感じた。

 

仕事をしなくてはいけないという現実が舞い込んできた時、ふと生活の中で自分自身に窮屈なものを覚え出した。あれほど臆病で怯えてばかりいた自分が言葉を少し覚えた。そのことで、自分の中の何かが変わり始めているのを感じていた。

物事の見方が変わった。垂直的な思考から、水平的な思考まで、あるいは包括的に変わっていった。

それでも何かが足りないという気がした。漠然と思っていた凄い人への憧れは未だありながらも、何かが異なっているような気がした。


何度も本を読んで考えた。種類も問わずに直感的に読みたいものだけを読んだ。そのどれもに納得できるものと理解し難いものがあって、その全てを論理的に取りまとめる形式が私にはないということを知った。


私には形式がない。私自身の形式がない。
それは今までよりもはっきりとした、自分自身の薄弱さの証明に思えた。


私は、私の形式がないことが不安で仕方がなかった。私というものの拠り所のなさに慄いて、出すべき声を失ってしまった。


もうあの頃のような純粋な探検ごっこはお終いだと言われたようで、私はそれでもおもちゃの剣を手放すことができないでいた。随分とメッキは剥がされてしまったのに、まだこの剣で戦えると思い込もうとするのに必死だった。

 

 

 

 

 


あれからどれくらい同じような日常が繰り返されただろうか。その一つ一つを大切に覚えていられる自分であったなら、同じようななどと虚しいことを言わないで済んだのだろうか。

 

同じ時間に起床して、同じことをして、同じように働き、同じように笑ったように悲しんだように怒ったようなフリをして、その癖本当のところは全て奥底に仕舞い込んでしまっている。だから鏡の前に立って、写る自分を見て泣き噦るしか能がない人間みたいになってるんじゃないか。

 

いずれにしても、時は進んでいる。砂時計はまだ砂を落とし切る様子はなく、その様子をただ眺めているだけではどうしようもないことは誰にだってわかっている。

 

何ができるのだろうか。この果てしなくも一瞬の生命一つに。今はただ遠くの方で、微かに声が聞こえるばかりだ。僕はまだその返事を考えている。