枕元に立つ暗い陰
春夏秋冬が目の前を通り過ぎて、気づけば私が吹き消すための蝋燭がひょっこり一本増えている。
誰の仕業か。アンチエイジングを謳い続ける若返り天国の世の中では、私の蝋燭の一本は誰かから見れば不幸への一歩になるのだろうか。
アラウンドなんとかで括ると、イメージの「おじさん」がいくらか離れたところからこちら側へ輪郭を近づけてくる年になった。
世間は「おじさん」になることを嫌がる。
身体は以前ほど活発には動けない。
傷の治りも遅ければ代謝も悪くなる一方。
その内歩くのも困難になって、気づけば家族の名前も顔すらも忘れてしまう。
けれど、認知症になる前の祖父よりも何となく自由で捉われがなく満ちているような感じがした。
年を取れば自ずと出来ないことが増えていくから、人はそれを「失った」と捉えるけれど、
失うことでより良いことに気づけるのなら、それはもはや何かを得ていることにはなりはしないだろうか。
今や人生100年時代のお陰で時間だけはたっぷりあるというのに、どうせなら好き勝手やってやろうなんて意気込みだけで生きていく気になんてなれない。
ベッドに横たわって、枕元の立つ陰が連れ去る前に、向こうに持っていけないものをいくら蓄えたところで仕方がないからだ。
物語の起承転結も、どれだけ運びが良くとも終わりが悪ければ駄作の烙印を押されかねない。
終わり悪くて却って喜ぶ輩もいるけれど、そういう人らだって自分の人生に関してはそうもいかない筈だ。
幸せな最後というものをいくら想像してみても、結局は死んでいく時はいつも独りだということに変わりはないことに気づくだけだ。
どんな立場にせよ、周りに誰がいるにせよ、何にせよ私は独りでこの世界からいなくなる。
ドラマでは死ぬ時にみんな悲しむのが常識のように演出しているけれど、死ぬことが悲しいなんてことは死んだことがないのだから本当は誰にも分からない。
ただ、この世に未練があるから、執着があって心と体が乖離しているから、肉肉しい心と空っからの体が水と油で拒絶しあって、仕舞いには自分を受け入れることがないまま死んでいく。
理想的なのは、自分の心と体の深さが同じところにあって、互いに受け入れ合っている状態。
持っていけないものに執着せずに、ただあるがままの自分の存在と一つに、本当の意味で独りになれること。
何だか抹香臭くなってきたけれど、
死ぬ時に人は最も強く自分の孤独を突きつけられるのではないだろうか。
今まで多くの人と出会い支えられてきた。自分自身とも思えるほどの人との出会い、代え難い存在もあった。
それでも、死ぬという段になってみると私はなぜ生きてきたんだろうという気がしてくるのではないか。
自ずから人生を振り返って、今目前にある死という事実と照らし合わせ反芻する。
誰にも言われずとも、私の人生は私の人生でしかない。私の生き方でしか生きれなかった時間、生きるとは私にとっての生きるでしかなかった。それと同じくして、死とは私にとっての死でしかない。
私の生も死も全てが私の世界の中での出来事であり、個別的な固有のものであり、私の全てである。即ちそれは、私は生まれながらに死ぬ時まで常に私という世界の主として独りであったということ。
死を前にして、人は自分の中の内的な言語を発語することを余儀なくされるのではないだろうか。
死とは現実世界の崩壊であるから、私たちが積み上げてきた外的なものは全てなくなるということでもある。
死後に別の国があるにせよ、魂の場所があるにせよ、何もないにせよ、人間の計算では理解できることはない。
だからこそ、私たちの死が私たちにとって単なる消滅や崩壊かどうかも分かりようがない。
どうせ死ぬんだから好き勝手生きるなんていってられないのは、死んだら終わりかどうか分からないからだ。
聖書では信じるものは救われる、と言う。裏を返せば、信じないものは救われない。
これは脅迫か何かだろうか?
信徒を増やすために行った過激な表現の一つかもしれない。人はみな罪の意識を持っている、そうした心理を逆手にとって原罪として生きることに責任を強く持たせた。人は、ただ生きるということができない。何か十字架を背負い生きなければ、人は遅かれ早かれ道を見失い正しき道を外れる。キリスト教の開祖は、人の心というものをよくよく理解していた人物なのかもしれない。
何が真実かどうか、真実とは事実とは異なる。事実のみが真実ではない世界、それが人間の心の世界ではないだろうか。
「死にたくない」ともがき苦しむよりも、
「死にたい」ともがき苦しむよりも、
それら感情に支配されない眼で「死」というものを考えたい。
そしてできれば、微風のようにそっと息を引き取られてどこかへ流れていければいい。