「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

快感にはほど遠い幸せ

幸せとはなんだろうか。禅師に言わせればそんなものはない。けれど、ある意味ではある。

私たちの使う言葉の意味の中では

 

 

しかし錯覚かもしれない。快感は幸せに似ているけれど、快感と幸せの違いをはっきりと自覚できているだろうか。

 

 

快感を産むのは、性か、それとも強い思い込みか。はたまたそれは激しい科学的作用か。

 

 

いずれにせよ、快感は無くならないらしい。それを追い求める人もその価値観も、目に見えるところにいつもあってしまう。

 

 

時々目が眩むような快感が押し寄せる、瞬く間にそれは消え去って、幸福とはほど遠い瞬間が訪れる。快感とは幸福の対義語だと、そう言うことだってできるはずだ。それほどまでに順序が逆転している。

 

 

私たちが心に隙間を感じてそこに寂しさを共感するなら、そこに埋まるべきものは幸せになるのだろう。あるいは全てを超越したもの、存在、ゆとりを持てば心に隙間があろうがなかろうがどうだっていいと禅師なら言うだろう。

 

 

だが所詮私たちだ、所詮と言うからこその私たちだ。その私たちはやはり執着するのだろう。その穴を埋めるための作業に。そこになるべく綺麗なものを置くとすれば幸福になるけれど、次第にそれは変化する。

 

 

幸福を求めるはずが、いずれは快感の虜になる。鼻から目的を誤ったこと。幸せになりたいことが誤りだと、誰が思うだろう。そうだ、幸せを得たいと思う心がもう既に詫びしく寂しい。それはどれだけのものを得ようと飽きたらないと自分で言っているのと同じだ。

 

 

そうやって求めていく。果てのない一人旅は、享楽を極めていく。惰眠が増え、堕落が増え、日に日に私の太陽は暗雲に翳る

 

 

幾星霜の時が流れて、どれだけの快楽が貪られてきただろうか。立ち止まることなどないように思えた快楽の進撃も、いずれは波立つ海が鎮まるように、平常を思い出す

 

 

 

平常の中に見出すのは、平穏か何か。確かに快楽にはない何かがそこにあることを瞬時垣間見る。けれど、その正体は掴めない。

 

 

 

仮に私たちの体がもっと不自由だとして、何をするにも制限がかかるばかりか、何一つ自分一人ではこなせないとなったとしよう。

すると見えるのは自分ではない。自分の我執などではない。そんなものは十に過ぎ去って、はっきりと目に映るのは現前にある事実だ。

 

 

私は一人では生きていけない。そんなことが言いたいわけでもなく、誰かの支えがなくてはいけないということでもない。ただ、明らかにそこには何かがある。自分一人では何もできない自分という姿と、それを成り立たせようとする人の姿がある。そして成り立つものだ。どうにかなるものだ。どんな人であれ。

 

 

 

仮に私たちが五体満足で何にも縛られないとしても、そこにあることに何ら違いはない。ただ、そこには何かがある。幸福や快楽といった、凝り固まった角ばった言葉よりも強烈な体感がある。その体感は言葉より重く、激しく穏やかである。

 

 

 

そして、そこにこそ快感にはほど遠い幸せと呼べるものがあるのではないかと思う。