「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

「愛」は世界を救わない

愛を歌った歌や物語は数多くあって、そこではいつも最終的に愛が世界を救うという結末になって幕を閉じることになる。

 

 

そういう夢物語を聞くと、心のどこかで「愛が世界を救うのなら、早く私の世界を救ってくれよ」なんて、揚げ足を取りたくなる。

 

 

確かに、もし本当に愛が世界を救うというのなら、世界はもっと平和になってもいいだろうし、もっと苦しまなくて済む人が増えたっていいはずだ。

 

 

けれど、そう簡単には世界は動いてはくれない。私たちの世界は相も変わらずに、絶望と希望に振り回されてばかりで、混沌としている。

 

 

 

 

 

 

 

 

けれど、それでも。

愛は世界を救うことはないかもしれないけれど、愛が世界にとって必要なことは誰だって分かっていることじゃないか。

 

 

私たちはこの暗い暗いトンネルを抜ける時、一人でただその暗闇に耐えていくだけでは耐えられないようにちゃんと出来ているじゃないか。

 

 

そういう自分を、一人では生きていけない自分をいつも知っているから、愛が世界を救わなくとも愛が必要無いとは言えない。

 

 

仮に救ってくれなくたって、私は「愛」というものが人の心にあるからどこか安心して生きていけるのだということを信じたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人にとって、愛とはどんな風に思い浮かべるものだろう。温かいだろうか。どんな形や色をしているだろうか。

 

 

愛は自分を時に苦しめるだろうか。愛する人に愛を教えられても、その愛する人が消えれば、今度は愛を知らなかった頃以上に苦しくなってしまうものなのだろうか。

 

 

 

「愛など知らなければ良かった。」

 

 

 

そういうあなたの言葉は、本心からのものだろうか。今一度自分にそう問うと、今度は愛がどんなものに思えてくる?

 

 

 

 

 

 

 

愛がどんなものかについて、論理的に突き詰めてみても、愛というもののかたちは一向に変わらない。

 

愛を愛と想い浮かべてみる時、脳裏の情景や、そこから溢れ出す感覚は、一向に変わらない。

 

 

 

もし変わったとすれば、それは愛では無い。愛が失われてしまったわけではなく、それは愛を忘れているだけだ。

 

 

 

 

愛はもっともっと深いところにある。恋愛の「愛」よりもっと深く、何かを支配したり、何かを欲しがったりするものではなく。

 

 

 

それでも、人は愛が足りない時、その隙間を何かで埋められたらと願わずにはいられない。

 

どれだけ意固地になって、自分は愛を与えられない、誰からも必要とされない存在なのだと言ってみても、ふいに差し込む温かな光に目を向けずにはいられない。

 

 

 

どれだけ深く暗いところに漂っていようとも、間違った自分の慰め方をしていても、日々やつれていってもなお、心のどこかでは「愛」がどこからか降ってくると信じている。

 

そう信じているから、私たちは本当に堕ちていくことはない。堕ちたような気がしているだけで、実際はその奥深くの愛の存在に安心している。

 

 

 

「何もかも終わった。意味がない。」

 

 

 

本心からそう言ったつもりでも、つもりにしかならないことが自分ではよく分かっている。心の奥深くで熱を帯びた光の玉のことを知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛は世界を救わない」。愛は世界を救わないかもしれないが、そんなことは、愛を知っていればどうだっていいことだ。そして愛を知らない人などいないのだから、愛はいつもそこかしこにしまってあるだけで、少し蓋を開ければすぐに溢れずにはいられなくなるものだから。

 

そういうものを私たちは誰しも持っていて、そういう不完全で不明瞭で無限大なものを人間が持っているということに、安心を感じて嬉しいと思える。

 

 

そういう「愛」というものの、本当の深さと不思議さに気付くことで、もしかすると救われる人もいるかもしれない。それ自体が力に変わって、私たちの全身を豊かに満たすかもしれない。

 

 

たとえ、死の淵にあったとしても、この可能性を忘れずにいられれば、本当に悲しいことや辛いことなど起こり得ないのではないだろうか。

 

どれだけ、周りから見て救われないように見える人ですら、その人自信が「愛」を知っていてさえすれば、

 

 

 

 

 

 

 

救われない人などいないのではないだろうか。

 

 

 

その人は、愛を知って、愛の奥深さとその意味を知って、それが自分の中に確かにあることを知ってかけがえのない安心を得るのではないだろうか。そこにこそまさしく愛があり、その安心が愛というものではないだろうか。そのことをよくよく考えずして、「愛は世界を救わない」と結論付けるのはまだ早いかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛」は世界を救わない、かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛」は世界を救う、かもしれない。