「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

「良く見られたい病」

何でも病にすることができる時代。

病名をつけてもらえれば、何か人に広く認められたものとして札付きの自分に安堵する。

 

 

精神疾患というものがあるらしい。実際、精神医学において病名は存在している。

 

けれど、精神が病にかかるのだとすると、一体精神のどこが何が病にかかったというのだろう。

 

実を言うとそのことをあまり考えたことがなかった。改めて考えてみると、精神の病という言葉自体が、何か無理矢理こじつけたものに思えてくる。

 

しかし、病名をつけなければ、対象を客観的観察対象として置かなければ科学は成立しないのだった。科学における医学なのだから、医者は患者を個人としてではなく、物質的な存在する対象として観察し向き合わなくてはいけない。

 

けれど、患者自身の精神は物質的対象物ではない。それではひとまず、患者の訴える諸症状や話(言葉)をもとに、患者の精神に起こっている現象を紐解かなくてはならない。

 

 

少し考えただけでもおよそ不可能だということが分かる。目に見えない、それでいて患者自身にもわからないことを、全くの他人である医者が分かるはずがない。

 

であるから、何も分からない医者が患者につけた病名という記号は、医者が分からないけれど断片的要素から継ぎ接ぎして命名した苦しまぎれと言えなくも無い。

 

例えその医者がどれだけ患者のことを想い、患者の回復を望んでいたとしても、そのことと患者を治せるか(症状を回復させられるか)は別の問題になる。

 

 

 

つまり、精神における病名というのは、目に見えず誰も分からないものに対して付けられた単なる言葉、そういう風に考えてもおかしくは無い。

 

 

それでも殊更その単なる言葉の方にばかり拘ってしまうのは、自分というものが他人の考えの中の類型に当てはまった方が気が楽だからだろうか。

 

 

自分の精神の病が、流行病のようなものだと思っていれば、いつかその病を治療する術を人類は見つけてくれる。その人類とは要するに自分以外の誰かであって、鼻からその人は自分の精神を自分でどうにかしようなどときっと思っていない。

 

 

かと言って、親鸞の言うような「他力本願」のような絶対的な信頼も持っていない。中途半端にインターネットに書かれている言葉を納得する間もなく浪費して、効果が薄れたらまた他人の威を借りるだけだ。

 

 

そういう訳だから、病名をつけてもらえると、いつか誰かにどうにかしてもらえる、自分のせいではないと思えて楽になる。

人は言葉によって自分を不自由にする。

いや、人は言葉によってのみ不自由になる。

 

 

 

こういうことを言うと責めていると思う人がいる。精神の病に罹った人にはその人なりの事情があると。あなたは罹ったことが無いから言うんだと。あなたには人を思いやる気持ちがないのかと。

 

 

 

それならば、苦しんでいない人などこの世にいるのだろうか。あるいは、苦しみの多寡を比べて競争をしたとして、ではその勝者がその苦しみの強さにおいて人に威張ることは正しいことだろうか。本人にとって善いことなのだろうか。

 

 

人との競争で疲れ果てて1人の世界に閉じこもり、そのせいで自分の精神は病んでいるとの結論に至ったのに、そこでもまた病んでいることにおいて誰かと競争し続けるのだろうか。

 

 

 

人を思いやるとは、その人のことを骨の髄まで甘えさせることなのだろうか。その人に本当は言うべきことを言っては傷つけるからと言わずに、耳障りの良い嘘を言うことだったろうか。

 

 

何が本当で何が嘘か、一体私たちはどれだけ考えたことがあるんだろうか。どれだけ考えた上で言葉を発しているんだろうか。この世界を突き動かしているのは明らかに、言葉でしかないというのに。

 

 

 

本当に正しい言葉は、紡がれて本当に正しい考えとなる。本当の正しい考えを知ることは、自分に陥っていると思われた地獄が、「地獄」という単なる言葉によって単に縛り付けていた、縛り付けられていた自分に気づかせる。