「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

なぜ生きていかなければいけないのか?

両親が子作りをして人間が生まれました。それが私です。両親はきっと、こんな子供が産まれるなんて知らなかったことでしょう。けれどそれは私も同じこと。私だって、こんな人間に生まれるなんて知らなかった。気づいたらもう生まれていて、生きることが決められていたのですから。

 

 

昔自分はよくこんなことを考えた

「どうして、自分は生きているのだろう。」

 

けれど答えは一向に見つからず、そもそもその前に「どうして自分は生まれたのだろう。」と思った。

 

両親が子作りをした結果生まれたとしても、私はその両親の元に生まれることを望んだ訳じゃない。魂のようなものがあって、その魂が私の知らない記憶の中で生まれることを望んだのだろうか。想像してみても、やはり無いものは見えないから、無いものは無いのだとしか思えない。

 

ならやっぱり生まれた理由はない。意図して生まれた訳じゃ無いから、生きることだって想定外の出来事だ。それでも生まれてから物心ついてすぐ人間工場で観念や概念を教育された私は、押し流されるように今まで生きてきた。

 

「生きる意味は人が創り出すものだ。」

 

一時はこうした考えに目から鱗の気持ちで心躍った。生まれた意味がないのなら創ればいい。幸せがないのなら見つければいい。そうやって日々を前向きに、能動的に生きる毎日は新鮮で楽しく愉快だった。しかし、そんな楽しい日々も毎日とはいかず、戦場のような社会に降り注ぐ槍のような雨が私の気力と体力を奪っていくのを感じていた。

 

このままでは、私はまた「生きる意味」を見失う。

 

焦る気持ちなどつゆ知らずとばかりに、一度現れた火種が次々に大地を焼き尽くす大火になるように、私の日々と体と心は段々と自信と活力を失っていった。

 

後の祭りとなってしまった荒れ果てた自分の世界を見て立ち登る黒煙も風に攫われた頃、半ば呆然とただ立ち尽くす案山子のようになって毎日を過ごすようになった。

 

時に何がそうさせたのか、あらゆるものを敵と見做して全てを憎み壊そうと考えたり、時に全てを包み愛することができる人間になりたいと考えたりした。

 

それでもそれは所詮頭の中の話。机上に並べられた戦争絵図は誰にも見せることなく、未だ私の頭の中の暗い地下道を通った最深部の部屋に、鍵をかけて閉じ込めてある。

 

 

 

そういう時代が随分と長く続いて、何度もボヤ騒ぎがあってを繰り返した辺りで、いよいよ歯向かうことも革新的なことにも興味が失せてきていた。

 

躍起にもはやムキにすらなっていた「生きる意味探し」も、何周もしている内に何か一つ分かっても何もわからないような堂々巡りに思えて、好きだったメロディも言葉も景色も匂いも味も色褪せて濁った水槽の中で酸素ボンベを付けられているような気分だった。

 

 

そんな虚無感も風物詩のようなものになるほど繰り返されて、春夏秋冬の中に含まれていくと、何だか何もかもどうあっても良いような気になってきた。

 

全てに意味がないという虚無感そのものがとても小さく思えて、代わりに道端に健気に咲く花や子供たちのはしゃぐ声や祈りのような人の優しさが心に焼き付いて離れなくなった。

 

 

 

時折空を見上げていると思う。

「なんて空は広いんだろう。でも空は空のままだ。」

きっと私には何か今までとは違う、それでいてかつては分かっていたことを思い出していたのだと思う。物事が物事それ自体で成立しているということ。その意味が、社会や他人や人間工場で教育された事柄に左右されない、「私」という存在をはっきりとさせていることに。

 

本当はずっと気づいていたのだと思う。そしてみんなずっと知っていることで、でもそれが当たり前にすぎるから意識から外れてしまう。空気を吸って吐くことに疑問を抱かないみたいに、私は「私」というただ一つの存在を空気の中に置き去りにして随分と道草を食っていたらしいことに、今になって気づいた。

 

そして気づくと同時に、気づいたところで「私」は「私」であることに変わりがないことに気づく。そんなことじゃ不安な時は、何も変わらない空を見上げて、少しだけ安心することができる。

 

 

 

何が分かったのだろうか?

 

「なぜ生きていかなければいけないの?」

もしそう若い人に聞かれても、何て答えれば正しいのか正直分からない。でも分からないのは別に悪いことじゃない、そういうことは分かるような気がする。

 

きっと「生きる意味探し」をする人たちは、一生そこに関わっていくことになるかもしれない。だって生まれた理由がないなんてこと真剣に一度でも考え出したら、きっとそんな不思議なこと答えが出るまでずっと頭から離れないだろうから。

 

 

「そんなこと考えるのに意味なんてないから、私は積極的に頑張って自分で幸せを掴むよ。」

そう言って生きていくとしても、きっとまたどこかであの疑問と出会う。ああまた君笑、なんていつか出会う時は古い友人みたいになっているかもしれない。

 

 

きっとこの疑問を真剣に投げかける人は、「分かりやすくてはっきりした」答えが欲しいんだと思う。その気持ちはよく分かる気がする。その方が気持ちも収まりがつくから。

 

 

だから色んな哲学とか心理学とか社会学とか、はたまた宗教学や生物学や文化人類学とか歴史学とか、基準の明確な知識に答えを求めるかもしれないけれど。(哲学と心理学は少し例外)

 

 

一向に答えは出ないはず。というより、他人の言葉や考えをそのままパズルみたいに組みわせて答えを作ろうとしても、欲しい結論を補強する証拠集めみたいになってしまうことが多い。

 

 

結局人は自分が見たいようにしか世界も自分のことも見れない。だからその時々の体調や心の態度や考え方(観念や概念、知識や経験)によって幾らでも欲しい答えが変わってしまう。

 

 

例えば、生きていかなければいけないけれど意味がないのなら死にたい。そう思う人が「生きる意味探し」をしても、やはりその「死にたい」という方向性に近い事柄の情報や言葉ばかり集めてしまう。そういうことを思う精神状態では、花の美しさや人の優しさなんて気づく余裕もない。

 

余裕があるとないとでは見る箇所も見え方も違ってくる。生きる意味の無さと同時に、そこに社会構造の欠点なんかを見出して仕舞えば、「こんな息苦しい気持ちにさせてまで生かそうとする社会が憎い。」なんてことになるかもしれない。けれど、どんなに社会が悪かろうが他人が悪かろうが、それによって苦しむことが多くても生きることを選んでいるのは「自分」だ。

 

それを知ってなお「外の世界」が生きていく上での「障害」になるのなら、そこに順応すべく自分が変わるか外の世界を変えるしかない。その方法のどちらを取るのが楽か、あるいは正しくて良いと思えるのかはその人次第なのだと思う。

 

そういう大きく分けた二つも、それが人の数だけ枝分かれしてそれぞれ紆余曲折しながら手探りでなんとかんとか生きている。そういう何十億もの個性が群がりながらも、意外に丸く収まって生きている。それが面白くもあり可笑しくもあるけれど、そういうのが人間で、その中に自分がただいるというだけ。

 

逆に言えば、それだけバラバラなことを考えてバラバラに生きてきた人たちが群れている中でそこに完全にピッタリ収まって生きていくなんて土台無理な話だと思う。

 

むしろ、「息苦しい」くらいが普通なんだと思う。もっと言えばそんな個性戦争みたいな世界で生きていけてる人はすごい。私なんかも生きているだけで戦争疲れした気分だけど、それだって生きていることを思えば案外凄いことかもしれない。

 

 

 

 

 

 

ここまで色々考えてみても、この疑問については腐るほど書くことが出てきそうだ。今日のところはこれぐらいにして、めげずに今後も書いていきたい気がするってあーもうこんな時間だ!