「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

自分の居場所なんて無い

自分の本当の居場所をいつもどこか探している。


僕は日本人。日本人として生まれて日本でしか暮らしたことがない。だから海外で生活したことのある人の話を聞くと、何となく自分のいる場所より良いものに思えて、自分の本当にいるべき場所はもっと別にあるんじゃないかという気がしてくる。

 


もっと居心地の良い場所は確かにあるかもしれない。けど、本当に居るべき場所がどこかなんて、分かるとも思えない。この日本に生まれた自分はきっとこれからも日本人として日本で生きていく。そうでなくなったとして、この場所で生まれて育ってきた中で染み付いたことは、洗って流せるようなものじゃないとちゃんとわかっている。

 


どんな場所に居たって、どんな国に生まれたって、それ自体は僕自身に何の関係もないことはわかってる。それと同じように、本当に居るべき場所なんてないこともわかっている。

 

いまが苦しくて、今いる場所じゃないもっと素晴らしい場所に行ったとして、そこで出会えたものがどれだけ素晴らしいとしても僕が僕であることに変わりはない。素晴らしくなかった場所に居た頃が消えるわけでもなく、ずっとあの自分のまま地続きの道を歩き続けていて、歩いている僕もまた僕のままでいる。

 

どれだけのものを手に入れて、どれだけ見た目が変ろうとも、どれだけ気持ちが変ろうとも、そのことに変わりはない。一生僕は僕のまま生きていく。

 

そんな当たり前のことを何度も何度も言っているうちに、そんな当たり前のことは僕だけの話じゃないということに気づいた。

 

 

居るべき場所が見つからないと思っている人にとって、自分の居るべき本当の場所を見つけることはとても大切なことなんだろう。

 


けど、居るべき場所がどこかよりも、そこに自分が必ず居ることを思うと、何となく順番がごっちゃになっていて、違和感を覚えていて。

 

 

日本が特別息苦しいなんてことはあり得ないんじゃないか。どこに生まれても、どんな苦しい世界に生まれても、私たちは目に写るものを見て、音を聞いて、匂いを嗅ぐことができて、この足で歩くことができて、考えることができる。

 

 

自分の生まれてきた場所や自分自身の存在は、運命のように離れがたい事実だけれど、その事実を誰もが背負いながら平等に生きている筈だ。

 


居場所がどうとか、ここよりもっと良い場所を探すとか、それも大事だけれど、そういうことの前に、誰もに訪れるようなことが自分にもあるということを、もっと知りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも、やっぱり自分が生まれた場所を呪うなら。

 

 

その呪いは、誰への呪いだろうか。親か兄弟か、友人か恋人か、職場の人か画面の向こうの見知らぬ誰かか、まだ見ぬ頭の中の誰かか。


どれだけの呪詛が、己の居場所の不遇を呪って吐き出されたのだろう。その数は計り知れず、未だにどこか人々の心の中に巣食っているのかもしれない。

 

そういう呪いが私たちの中にあって、時々心が弱った時に、今いる場所の全てから自分を逃がそうとするのかもしれない。そうやって自分を守ることしかまるで道がないかのように、私たちを誘導するのかもしれない。

 


けれども、もしそんな私たちへの呪いがいくつもあるのなら、そうした呪いを出来ることなら解いてやりたい。何かの言葉で植え付けられた呪いを、暖かいもので全て溶かしてみたい。

 


私たちは所在なく様々な場所を渡り歩く、まるで遊牧民のように歩いてはまた次の場所を目指す。

 


きっと歩き疲れた先で、始まりの場所のことをまた思い出すのだろう。懐かしく思うのだろう。愛おしく思えたらいいのに。

 

 

場所と自分。居場所と自分。自分と他人。人は人。場所は場所。全ては区別できるけれど、ごちゃごちゃしていて、頭が混乱してくる。

 

だからこそ、少しずつ紐解いていく。そのやり方はあんまり単調でつまらないけれど、少しずつ解けた先で新たに待っている景色がある。登っていく山頂の頂きの景色がある。登り疲れた先で目に映る思ってもみなかった景色がある。そういうことを確かに知っていれば、どこに居たって、何も怖くない。どこに行くことになったって、どこに行くべきか分からなくたって、どこに行くのか分からないような時だって、何も怖いことなんてない。不安なことなんてない。気に止むことも、自分を必要以上に傷つける言葉なんてない。

 

 

ただ私たちは各々の道を歩いて、各々の山を登って、それぞれの眼で耳で鼻で足で心で世界を感じている。その奥底に、言葉の繋がりがあるのなら、私たちが歩いている道だってそんなに違うことも遠いこともない。きっとどこかで繋がっている。この言葉がきっといつかは誰かに届くように。