「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

分別を極めると寂しい人になる

「分別をつけなさない」

そういう事を、一度も言われずに生きてきた人がいれば、それはとても幸運な事だと思う。

なぜなら、この世界は分別に満ち溢れ過ぎているし、そんな場所に長くいれば普通は誰でも分別というものを意識せずにはいられないからだ。

 

 

 

分別というのは、色々な捉え方のできるものだが、簡単に言えばあっちとこっちの間に「線を引く」という事だろう。

 

 

線引きという言葉があるけれど、まさしく私たちは真っ当に生きようとするとどうしてもその線引きを何度も行わなければならない状況に遭遇する。

 

 

例えば、良い人と悪い人という線引き。あの人は良い人だけど、あの人は悪い人、あまり良くない人、良い人そうだけど実は悪い人。

 

 

その線引きの細かさは、時間を追うごとに精緻になっていく。ある人は、その線引きの細かさを「分別のある人」と言って喜ぶ

 

 

 

そもそも分別のある人間というのは、違いがよく分かる人でなくてはならない。何が良いことか悪いことか分からなければ、良いことをしようにも何をすれば良いのか分からないからだ。

 

 

つまり、褒められる分別のある人というのは、物事の良し悪しを十二分に理解している人であって、それ故に良い事を為せる人である。

 

 

もし、分別はありながらも、敢えて悪いことをしている人がいれば、それは分別の無い人ということになるだろう。

 

 

 

だが、そんな理屈はあまり今回の話とは相容れない。何故なら、私が分別についてどれだけのことを言っても、それは分別であることに違いなく、その精細について語ろうが、それには際限がないからだ。

 

 

だから分別の幅は個人に委ねるとして、何が言いたいかというと、些か突飛なようだけれどこうなる。

 

 

分別を極めると寂しい人になる

 

 

 

分別を極めるというのは、分別に執着すると言ってもいいかもしれない。分別に執着すると言ってもピンと来ないかもしれないが、例えばこういうことだ。

 

 

昔からの友人と久しぶりに話をした。いつも通り仲良く話をすることができたが、彼が言った一言が帰り際どうしても気にかかった。昔の彼ならあんな言葉は使わなかったはずだが、しばらく見ないうちに随分と変わってしまったらしい。もしかするとあれが本当の彼なのでは無いか。あれが彼の本性であるなら、私はあんな言葉を使う人間と友人であり続けることはできない。

 

 

これがどう分別なのか。よくわからないような例しか浮かばなかったが、つまりは、彼と付き合い続けることはできない、というのが分別である。そんな粗悪な言葉遣いをする人間とは友人でいられない、これも分別である。

 

分別とは「死後の世界を見たことがないし証明できるものもないから、死後の世界など信じない」というような類の総称だ。

 

 

つまりは、分別をつけた段階で、「彼が何故そんな言葉遣いをしたのか」、「死後の世界はあるのか」という可能性は完全に絶たれてしまったということだ。

 

 

彼との関係性は失われ、彼の中に持ち得る長所を見出す機会を失い、理解できない言葉を使う人間との理解の時間は失われた。

死後の世界を信じ善人であろうと努める機会は失われ、亡き人の存在を想像し力を得る機会を失った。

 

 

この損失の大きさを損得勘定で考えるとおかしなことになる。ただ、分かりやすくそう考えてみても、分別というのは時に、そしてほとんどの場合は「機会の損失」と結びつくものだ。

 

 

例が悪いと思うのなら、自分でいくらでも思い浮かべてみるとわかる。現に選択は分別を基に行われているのだから、全ての事象に携わっている。

 

 

しかし、そんな損失が一体どうなる。悪いと思った人間とは付き合わない方が却って得じゃないか。むしろ、あるかどうか分からないものを信じる方が余程不健全じゃ無いか。

 

 

こう分別すれば、直ちに全て一掃される。ありとあらゆる可能性の芽が摘まれる。

 

 

 

分別を極めるということは、徹底的に自己と他者との区別をつけるということだ。けれど、相手を通して自分を知ることが必然なら、相手と自分の境界などというのは曖昧だと知って然るべきことだ。自分だけで自分が成り立っていない、自分だけでは理解できない自分だとわかっているのなら、全てに区別がない状態の方が余程普通のことではないか。むしろ区別をつけてしまうから、何もかも別にするから自分というのがいつまで経っても「個人的価値観」から抜け出せない空虚な存在に思えるのではないか。

 

 

 

つまりは、分別はいずれ寂しいことになる。

どうせなら、自分に通っているものあなたに通っているものがどう繋がっているのか、そういう思いで過ごしたい。