「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

直感とそのさらに奥深く

人の顔を見て、直感的に何か嫌なものを感じることがある。あるいは良いものを感じることがある。

 

 

それが何を意味しているのか、その意味の真意はよくわからない。例えばそれが心理学で言うところの「他者は自己の鏡」であるとするなら、私は彼彼女の嫌な部分に共鳴したということで、その嫌さは自分から来るものだということを言われても、何だか分かったようなわからないような。

 

かと言って、その直感が必ずしも正しいと言える論理的根拠も薄い。それが無意識に仕舞い込まれたデータによるものだと言っても、いまいち分かったようでわからないような気になる。

 

 

 

こうした、ありとあらゆることに対して覚える啓示的な思いつきを人は「直感」と呼んでいるが、果たしてその性質がどれほどのものか考える人はあまりいないだろう。

 

 

よくよく考えてみるとおかしな「現象」だ。

どこからともなく現れたこの直感は、当たることも多ければ、外れることもある。けれども、どうしてか私たちはその直感を完全には無視できない。どこかその直感の余韻は後を引いて、もし従わなければ少なからず私たちの中に蟠りを残す。

 

 

 

そんなものは非科学的で何の論拠もない、盛り立てるだけ無駄な話だと現代の若い人は言うだろう。あるいは、何か都市伝説に向かう姿勢と同じくして興味だけで娯楽的に捉えるだろう。

 

 

しかし、長く生き様々なことを経験し、様々に人と関係し、自然に触れた時の感性を忘れずにいると、そんな悠長な面持ちではいられない直感というものに出会う。

 

それは直感がただの直感でないことを知ったからこそそう思うのであって、直感がまさに自分の全く予期せぬことを思いつき、それによって自分の全く深いところからそれが来ているということに驚いた者にしか感じ得ないものなのだと思う。

 

 

世の中ではよく「直感を信じるか信じないか」ということが議論される。科学は直感を、無意識下で行われる高度な情報処理の結果であるとしている。そうした論拠でもって、信じるという人もいる。かと思えば、その高度な情報処理というものの証拠の脆弱さを根拠にして私は信じないという人がいる。

 

 

概ねそのような論拠と論拠の言い争いの末、大抵は「よくわからない」ということになって、終いには「どうでもいい」となってしまう。

 

 

事実、現代の科学が万能となった時代においてて、直感とか言う正答率の低いものは、統計学に劣る技術」であって、そんな精度の低い技術など誰も用いらないということになってしまう。

 

 

だが、事実を重ねて言うのなら、その統計学というものは、巨大なサンプルの中での傾向を「個人」の事例を無視してざっくばらんに示したモノにすぎない。あれは本来正解でも何でもなく、一人の人間がやる当て水量の精度が多少高いとか言ったことに過ぎない。

 

 

そうなればむしろ、直感の方が、「個人」の事例を多分に踏まえ、かつ非常に個人的な状況において柔軟性を持った情報処理だと言える。

どちらが上かどうかということはわからないが、どちらも当て水量であって、片方は「全体の傾向」を、片方は「個人の経験」を、そして対象はあくまで「個人の状況」からであるということははっきりしている。つまりは、私たちが信奉している科学というのも、それほどわかったような代物だとは言えない。それにもしかすると、「どうでもいい」とすら言えるかもしれない。

 

 

直感と科学、どちらもはっきりしないものなら、結局はどちらのことも考えるにどうでもいいと思われて仕方がないのかもしれない。

 

 

けれど、その曖昧さの裏には、はっきりとした思い込みや不明確さが浮かばれる。ということはやはり、その思い違いについてもう少し慎重になるべきであるとは思う。