「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

人生は壮大な暇つぶし

日々の仕事や生活に追われて、週末どこへ行こうか何をしようかと考えておきながら、いざ週末を迎えると何をしたいのかわからなくなる。

 

 

あれ、もしかするとしなくてはならないことなど何もないのではないだろうか。

暇。退屈。という言葉が頭の中をぐるぐると回り続ける。

 

 

私たちは、常に何かをしなければならないと思おうとしている。そうすることで、自分が暇になり退屈を覚えないようにしている。

 

 

けれど、少し生活の手を止めてみると気付く。本当にやるべきことなんてない。

 

 

自分自身の人生に大いなる意味なんてものは存在しない。そもそも生まれた理由すらないのだ。自分の人生には意味もなければ、自分のやることに意味があるはずもない。

 

 

自分や宇宙の存在の謎に行き着くと、結局は人生というものは壮大な暇つぶしであると思える。事実、何の目的もなく、意味もなく続けられる人生とやらは、膨大な夏休みを予定で埋めようとする暇つぶしと同じだ。

 

 

それでも意味はないことをただ続けてはいられないから、私たちはそこに意味を付与する。時にその壮大な暇つぶしを大きな問題として取り上げ絶望し、虚無に浸る。それすらも暇つぶしである、ということは忘れて。

 

 

でもどこかで私たちは、全ては暇つぶしなのだと感じている。この激情も煩悶も、暇から逃れるために生まれたものなのだと。

 

 

では、私たちは一体何をやっているのだろう。何をやる必要もなく、どんな制限も与えられた意味もない。これが暇つぶしであるなら、何をやっていたって構いはしないはずだ。

 

 

 

しかし。しかし、暇つぶしであるような生ならば、無理をして生きている必要もないのではないか。

 

 

無理をしてまで生きる必要はない。ただ依然として人生は暇つぶしであるから、あなたが死んだとして、それは何ら意味もなさない

 

 

それに、理由はわからないけれど生まれたからこうして生きているわけであって、生きている限り死んでいないというだけだ。

 

 

そしていつかは死ぬのだから、それを早めたとして、ただ単に暇つぶしの時間が減るというだけだ。あなたにとっては壮大な数十年も、宇宙にとっては砂の一粒よりも小さい。

 

 

虚無を感じるだろうか。この宇宙大の世界の中の小さな小さな自分の生に。

 

 

けれど、その宇宙から見たらこれほど小さな生が、宇宙を意識できることもまた不思議だ。小さな取るに足らない砂粒以下の私たちが、宇宙を考える時、心の中に確かに宇宙を思い浮かべているのだから不思議だ。そして小さい者ながら、その壮大さを確かに理解しているのだから。

 

 

 

こんなことを考えるのだって、贅沢なものだ。

暇を持て余している。そしてその暇が与える贅沢さに、気が狂いそうになりながら、それすらも暇つぶしなのだと思うと、全くこの小さな者の生に驚嘆し嘆息し笑うしかなくなってしまう。