「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

幻想的世界

パズルのピースをいくらか並べ変えても、ピースが取り替えられたのに気づかないようなものが幻想なら、現実なんてものは初めからそうだったのかもしれない。

 

 

 

 

 


幻想的な世界が満たすのは、その人の願望か、それがなんであれ本人には為す術などない。辺りに霧が立ち込め木々が風の音に揺れ話し出したとして、火の中で踊り狂う小人たちを見たとして、暗闇に閃光が差し込んで目が覚めるまでは、いつまでもそこに揺蕩う運命なのだから。

 

 

 

 

 

 


何故こうも違ってくるのか。映像として映し出されるものと感覚として残された意識は、絶えずそれぞれが我先にその道を譲らない。彼らは道行く道で人を跳ね飛ばしながらも嵐のように突き進んでは、それ以外に大切なことなどないかのように呵責が存在しない。

 

 


一向に掴めない方の意識はと言うと、相も変わらず仏頂面か惚けているだけなのか、返事などどこに必要があるという顔で、両手を広げてただ存在を示す高僧のように佇んでいる。

 

 

 

 

 


バランスのない精神世界では、絶えず意識の濁流が流れ込みそこかしこで氾濫を起こし、思念によって意識の湖を濁らす。そこに生息する生き物たちは、果て困ったと言う目をして濁流の先を見ずに別天地を探す。終わりのない探索が行き詰まれば、それが終わりとなるような探索が無限に等しく続けられる。その様は宴に似ていて、誰かを悼む声に似ていて、いずれも終われば皆家に帰り別々の日常へ戻るだけだ。

 

 

 

 

 

息を切らして走り続ける陸上生物は、濁流の被害を避けた代わりに酒酔いの果実に溺れて天啓を失う。またその失った暁に、思念を生み出し続ける。思念に溺れれば、彼らは思念と一体になる。恐ろしく禍々しく賑やかな思念たちがこの世界に跋扈する。

 

 

 

 

ありとあらゆる逃避と繁殖が行われていく中で、世界は火を見るより明らかなものへと変態していく。そして世界はもう二度とあの全てを包み込む母なる水の中には戻れず、永遠に最も近い安息に揺蕩うことができないことを知って、木に並んで立ち尽くすことを覚える。植物の賢さを知るが、そのうちに淫らな果実を屠り出せば、世界はより幻想的世界へと誘われる。

 

 

 

 

幻想と幻想が入り混じった世界には、高次も低次もなく、昼下がりの公園でじゃれ合う子供らのように無邪気になされたことで、夕暮れと共に帰っていくだけだ。全ては一つの出来事。何もかも折込済みでこのようにつくられたのなら、その人に会ってみたいものだと誰かが言う。その特筆した芸にチップをいくらか弾みたい気になっているその人は、いつか作者に出会えるだろうか。

 

 

 

 

 


 

やがて華々しく騒々しいパレードは終わりを告げる。縁も竹縄と誰かが遠くで言う声が聞こえ、グラスを掲げる人々と構わずに踊り続ける子供らと、隅で繰り広げられる哀れな触感劇的外れな議論の余韻が鶴の一声によって一瞬にして辺りは静寂を超えた森閑な空気の音に沈み込む。

 

 

 

 

 

 

 

 


あの賑やかさを胸に湛えたまま、あの騒がしい魂たちはどこへと帰るのだろう。その魂にすらわからない。彼らには道という道がない。それがまさしく道なのだと、それならば道とはとんだ幻想だ。