「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

人間の全て

人間の本質なんてものについて、どれだけの人がどれだけのことを言ってきたかは知らない。

けれど、そのほとんどが人間とは鼠よりも賢くハエよりは優れているといったものであって、そういう人はまさか自分の中にあなたが最も毛嫌いするあの生き物たちの潮流が流れているなどとは想像もしたことがない。

 

何故想像しないのかは決まっている。そんなことをしても、何の金にもならないどころか、まるで毒薬を持って悪法に挑むソクラテスになることを恐れているからだ。

 

あの哲人の強靭で熾烈な精神など、誰が想像できるだろうか。まさしく私たちの精神は何一つ、あの罪を生涯免れた男には寸分近いてはいない。ソクラテスは、参考にならないほどおよそ尋常ならざる哲人だ。

 

 

そんな二千年前の人間を語り出すなんて古臭いし、生憎私の目と耳は最新型だというのなら、一体その最新式が君にどれほど目新しく美しい世界を見せてくれただろう。

 

 

一重に、人間の本質の一つは、何億年何千年経とうが、進歩せず、常にその場に居座り続けようとするということだ。彼らはその場にじっとして自分の心の醜さに向き合うことがあまりに辛いせいで、あくせく働きまわっては最新式を手に入れようとする。

 

それが金になろうが、自分のどんな快楽を生み出そうが、本当はどうだっていい。ただ、ありふれた日常をありふれた日常にしてしまう自分自身に心底嫌気が指して、気づいたらナイフで快感を得ることを覚えたというだけのことだ。

 

 

何故こんな辛辣な言い方を人間の本質なんていう仰々しいもので言いくるめるのか、それは私自身が人間に嫌気がさしているからだ。

 

 

心理学者はこう言うかもしれない。

それはあなたの幻影だ、あなたの世界はあなた自身の心の投影です。じゃあ何か、この世界や人間が醜いと思う奴はみんな、そいつ自身が醜いせいで、人間自体はちっとも汚れていないとでも言う気だろうか。

 

するとカウンセラーがこう言う。

あなたは疲れているのよ。少し休息を取りなさい。少しだけ頭を落ち着かせて、もっと楽しいことを考えるの。

 

あるいは、

君の言っていることは全く抽象的で話にならない。君自身の日常の不満が、それに侵される自分が気に食わなく不愉快なのだろう。第一、人間が醜いなんてことは今に始まったことじゃない。私たちは排泄もするし、垢だって出せば、手には無数の菌が蠢いている。それに人間は悪事を働くし、そのせいで人が殺されたり恐ろしいことをする。そうした暴挙を抑制するために法律があるんだ。それに君だって嘘をついたり、良からぬ妄想に取り憑かれることがあるだろう。それに人間の悪は人間の一部分であって、悪い人間ばかりでも醜い人間ばかりでもないことは君も良く知っている筈だ。君の母親や親しい人を思い浮かべてみて、君はその人にあなたは醜いと言うことができるかね。それとも、言えないとしたら、そのことを君はどう説明づける。

 

 

 

さて、もう人間の本質なんてものを語るのはよそうじゃないか。誰に言ってるわけでもない、誰が読んでるわけでもない。まさしく地下室の住人の如く、ただ壁に向かって話しているだけ。きっと多くの人が今夜も壁に向かって話しかけているだろうことを想像しながら、何かの間違いで壁から言葉だけが通り抜けてその人の最深部に辿り着くという妄想に取り憑かれている。別に珍しいことじゃない。みんなやっていることだよ。

 

 

人間というのは、人間でしかない。動物でもあり人間でもある。ということは動物でもないし人間でもないと言える。私たちはどっちかの名前で呼んでも、意味が通るものがあるなら、両方が含まれているし、じゃあ呼び名である人間という言葉は、人間を示しているけど、人間=人間なんて誰も言っていない。

 

 

不完全な理解だ。動物か人間かなんて本当はどうでもいいことだ。善悪についても、美しいか醜いかについても同じだ。全ては私たちが物語を通して知っているように、全て本当のことで、全てあり得る話だ。あり得ることはあり得る。人間の本質は全てそこに含まれている。

 

私たちが語り得ないのが何よりの証拠だ。人間とはこれこれこうだと、どれだけ言ったところで定義はどうしたとかそんな間抜けなことしか言えないのは、何も知らないからだ。

 

 

本当は全員が、こう言えばよかった。私は人間について何も知りません。だから私はあの人が醜いかどうかもわからないし、美しいかどうかもわからない。だって、人間は醜くもあり美しいでしょ。悪い人は本当は善い人かもしれないじゃない。

 

 

でも実際は、あちらこちらで私たちは目に見えないものに糾弾されている。刑罰以上の屈辱を受けながら。そして本当の無法地帯の中で、恥辱と屈辱の世界で、辛酸に耐えながら生き抜くという運命を神から授かっている。そして私たちはいつでも、神を探している。斬首人に願いを請う。

 

 

このどうしようもないやりきれない日常を、ありふれた感情で塗りつぶしていくなんて、そんなことをもし自分自身への戒めだと思っているなら、

 

 

もうどうでもいい。本当を言うともうどうでもいい。行き過ぎてしまったのかもしれない。色々な屈折を起こし過ぎて、レンズがすっかり湾曲を激しくし過ぎたのかもしれない。心洗う尊い光景よりも、人が人の顔に糞を投げつける様子が目についてしまう。弱肉強食。奪い合いと闘争の世界に疲れてしまったんだろう。いやもうように昔から疲れていたんだろう。気づいた時には、肉食動物が後ろを追いかけて来ていたのを、気づかないふりをして、人生に蓋をして眩い光の中に溶け込む妄想をして誤魔化してきただけなんだから。ずっとそうだった。

 

 

 

こんな感情的で狂しい文章を誰が読みたいだろう。だが、誰が読むかなど気にしていられるのなら、本当のことなど何一つ言えやしないのじゃないか。誰だって本当のことを言う時は、それもなるべく本人の中の真実に触れる時は感情的になり、人を敬ったり配慮するなどとは無縁になるのではないか。感情的な文章が嫌いならら、初めから文章など書くのも読むのもやめるべきだ。ロボットには耳がないから言っても無駄だろうけれど。

 

ああこれ以上人の揚げ足を取ろうとする自分にもうんざりだ。うんざりだと何度だって思って来た、何度嫌っても憎んでみても、現実逃避をしてみても、現実というのは朝目覚めた時にもうそこにあるものだ。

 

 

紛らわすことなんてどうやってできる。

音楽を大音量で聴く、本を読む、Netflixの海外ドラマを見て、時に登場人物に同情し涙する。あれ、こんなに涙もろかったっけ。

それは投影です。ああそうか、やっぱり。

私疲れてるんだ。

 

 

そんな疲れを癒すために前向きを抱いても、表裏一体の心は常にコイントスを続けて、私を試そうとする。さぁ、今はどっちの気分?

 

 

眠り、眠る。牛が起きてもまだ私は寝る。呆れるほどに眠り続ける。眠りの癒しが遠回しな疲労に変わった頃、何ができる?運動?新たなコミュニティでの活動?恋愛?家族を持つ?経済の安定化に将来は何不自由な家族を養って、私は老後にマイホームの縁側で煎茶に読書。

 

夢見る?何を?漠然とした風景を思い描くか。

風景は何を語りかける。大いなる自然の偉大さか、己の無力さか、はたまた思い違いの幻覚を見せるか。

 

 

何度繰り返そうが、現実から逃げ果せることなどない。決して。あなたたちは関係のない統合失調症患者の戯言と思っているだろうけれど、違う。鏡をよく見てみて。人をよく見て。世界を眺めて。あなたはどう思う。投影です。現実ははっきりとこう伝えている。何かおかしい。

 

違和感はどこから来ている。それともその違和感すら抱かない。私は何不自由なく、何一つ反省するところなどない?あんたと私を一緒にしないで!狂人の戯事を束ねたものを礼賛するからこの世界はおかしくなったのよ。狂人は炎に焼かれて死ぬか、私たちから隔離して頂戴。

それとも、人間とはそんなものだって冷めた目で見てるのか。机の上には何にも答えなんかないんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

誰のせいでもない。あなたが間違っているわけでも、世界が間違っているわけでも、人間が生まれたこと自体が原罪であるわけもない。

誰のせいでもないという言葉が真に使われるのは、単に責任の問題だけじゃない。ただ単に、起こるべくしてことは起こるというだけのことを言いたいんだろう。運命を運命と名付けたいんだろう。

ただ私たちはなんとなく、退屈なだけで、その退屈しのぎのやり方が上手くないだけだ。そのやり方があまりに動物的で、人間の性質にそぐわない場合があって、けれど動物を好む心があって、動物を憎む心があって、そのために分別をつけて序列を作ればことはもっとややこしく心を混乱させ矛盾が絡まっていった成れの果てが、あまり美しく見えなかっただけだ。

 

どうだっていい。本当は。どうだって良かったんだ。ただ忘れないでいるべきことを覚えてさえいられれば。ただ一つ大切なことだけは忘れずにいられれば。それで満足だったのに。

 

 

悲しい。悲しみすら乗り越えていく悲しさ。

嬉しい。嬉しいすら思い出せない嬉しさ。

恐ろしい。恐ろしいすら忘れる恐ろしさ。