「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

図書館の風景

通っている区の図書館では、毎度読みきれない本を返して、小説コーナーと奥まった方の厳しい類の本が集まる一角へといそいそと足を運ぶだけだ。


ここ最近は冷房設備のない館内は、ジメジメとした空気と生暖かさで額に汗が滲んでくることが、却って発汗を急がせる。自転車を10分ほどかけてそれなりの速度でもって来ているのもあって、私の体温は目に見えない温度上昇を見せていたせいでもあっただろう。



生温い館内を、なるべく目当ての本を作者を頼りに探す作業は楽しくもあるけれど、横に人が来た時の気まずさについてはあまり好まない。人が来ると自閉気味の私は、それだけで気を使い、そんな自分に気づき熱くなり、気になって本どころではなくなる。



それでも、人間はある程度慣れるもので、最近では人が来ても一挙に集中してお目当てを見つけて去るという技を身につけた。それでも見つからずそういう時に限って人が集まって来ることは往往にしてよくあることで、諦めて図書館を一周してまた戻ってくると、定年を過ぎた年齢のお爺さんが息荒くうろうろとしていたりする。



お爺さんは、本を探すという感じでもなく、ただ館内をうろうろしているという感じだった。一見すると足が悪いのか、腰が悪いのか、不安定な足取りで90度に近い角度を保ったまま一体を徘徊している。

私が本を探して丁度二冊ほど目当てのものを見つけた頃になると、荒い息でお爺さんが近づいてくるのがわかる。お爺さんの息の荒さは、もし四六時中同じ部屋で過ごせば、心配症の人であれば彼に病院に行きましたかと質問しないではいられないだろう程度のものだった。

けれど、来たところでろくすっぽ本など目もくれずに、はたと私を見たかと思えば、何も見ていないような風をしてまた去っていく。

私はその不規則かつ規則的な軌道で動く有様を称賛して特徴にちなんで、嵐のお爺さんと呼ぶことにしている。



館内に入って早々に若い女子大学生らしき人が、奥の受付の中年男性と何か面倒そうなやり取りをしているのが見えた。何やら一見すると、彼女が借りたいと思っている本が借りれないという状況らしかった。彼女の方も多少強気と見えたが、受付の男性の方もなかなかに歯切れの良くない感じであった。

「どういう本が借りれない本何ですか!」

ついに彼女は多少譲っていた心もそっちのけに、若く自信のある女性特有の強い語気でそう言い放ったのだ。私はその脇をささと何となく恥ずかしいような気持ちで通り過ぎてしまったので、その受付の中年男性がどんな顔をしているのか見損ねてしまった。よくよく考えると、二人ともマスクをしていたのでそれも杞憂ではあったのだけど。しかしきっとマスクの裏側では、却って見えないことにありありとその時の表情が浮かび上がっていたに違いない。




ある時は、熱心に小説コーナーの一角に注視している、これまたやはり隠居婆さんらしき人がいた。女性に多いけれど、男性は私が来れば大抵そこを去るが、女性は往々にして我関せずなのか自分の場所を動かないことが多い。思えば、高齢や中年者に限って言えば、男性より女性で来る人の方がより熱心に棚を眺めているように思う。そのお婆さんの熱心さにはこちらまで何か情熱を掻き立てられるものがある。私はかつて彼女が文学少女として、この図書館で同じように本を探している様を想像してみた。その光景は、とても美しく尊いものに思えた。




ある時は、本を膝におけ広げた体勢のまま、確かに視線が宙に浮いて椅子に座り込んでいる人を見た。そして案の定次の瞬間には、豚鼻のような音と安らかな呼吸が聞こえてくる。

図書館に来てわざわざ、席を陣取り本まで開いているのに、彼にはその本を読むよりももっと良い案が思いついたに違いない。辺りは静かで、温度も心地よい温さである。誰一人声を出すものも彼に声をかける者もいない。よしとそこで彼は名案を実行したのだろう。そうなればきっと彼は、頭の中でトムソーヤーの冒険よりずっと魅力的な物語をその時読んでいたに違いないのだ。





ある時は、賑やかな華々しい声が聞こえてくることもある。若い学生の声で、小学生か勉強に来る中学生か高校生か、はたまた大学生か、彼らの闊達な雰囲気というのは、どこか羨ましくもあり、何か心を躍らせるものがある。

実際、自分より若いだろう人が図書館の足を運んでいるという事実は確かに自分を勇気付けた。図書館の本は決して過去の遺物などではない。決して古典的アンティークではない。そこにある言葉は確かに彼らの生き生きとした躍動の中にも見られるのだという、初心を思い出させるものがあった。

彼らの溌剌さの根源となる言葉が、この言葉の海の中にも確かにあるのだと思うと、私の本探しはかつて子供の頃にやった宝探しのように新鮮なものに変わる気がした。その宝は目に見えないが、一度お目にかければ、生涯明け渡す必要も、ひけらかす必要もないという点でとても気に入っている。彼らも同じ気持ちであればいいと思った。







図書館は本の海である以前に人の海である。そして人の海である以前に言葉の海である。

言葉は人の海に流れ込んで、一つの海となる。人々はまるで海を泳ぐ魚のように、言葉を得た人間のように嬉々としてあまりに簡単に言葉を欲する。その簡単さがとても懐かしくて、嬉しいのはどうしてだろうか。


大きく緩やかで寛大な海は、日本海でも太平洋でもなく、この場所にあったのだ。