「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

問題があるような気がする問題

インターネットやメディアを通した世界に慣れてくると、普通のコミュニケーションで得られること以上の情報が次々と飛び込んでくる。



ネット記事やブログなんかもそうで、SNSはその最たるもの。テレビや新聞なんかもだし、もちろんドラマや映画だって、小説だってそういうことの一つではある。



けれど、ことさら問題を大きくしているのは、インターネットとマスメディアの方だろうと思う。



あれらは、本などよりもはるかに流通が早く、ろくすっぽ咀嚼されないまま脳の中心を掠めていく。私たちは何も影響されていないと感じているけれど、あれだけ膨大な情報を脳が全てフィルタリングできているとは思えない。



もし近くの人間関係だけ済んでいた時代なら、それほど情報の選択に苦労はしなかっただろう。ある人の選択肢はある意味で実はそれほど多くはないから、狭い世界の中で広い想像力を持って冷静に情報を処理し咀嚼する時間があるはずだ。



しかしながら、今の世の中は、ありとあらゆる情報媒体が、私たちの身近にない情報を伝えてくる。私たちが朝目玉焼きを食べている間に、行ったこともない国の触れたことのない髪の人の話をしている。



かと思えば、会ったこともない人の突然の死が、まるで祖父を失った悲しみを共有するが如く流れている。



その他ありとあらゆるほとんどの情報は私個人に何ら関係がないばかりか、手に負えないものであるのに、それが何より重要な問題であるとばかりに彩られた情報を自分の目を通さずに見る。まるでその戦争が今目の前で起こっていて、それに参加しないものは反逆者だと見做される儀式のように。




けど、目玉焼きを食べて家を出る支度が済んだ頃には、もう何一つの感慨もない。ただ漠然とした感傷を刺激した情報は、半端な問題意識だけを植えつけて次の情報へと駆り立てる。




この半端な問題意識は、私たちの根の深いところで寄生虫のようにじわじわと心の襞を餌に生き延びている。そのことに気づくと、掘り起こしてみた自分の心の中の「問題にならない問題」が数珠つなぎに繋がって、鎖のように自分を縛り付けているのを感じて、いてもたってもいられなくなる。

例えば、もう私の半分以上は寄生虫のものであって、いずれ誰かを食い殺すのではないかという危惧が、もう既にその危惧が寄生虫と一体となっている証拠ではないかと気づき、最後の抵抗で気違いのようにただ体を震わせるしかない鼠がいたら、それは私だ。







「問題にならない問題」とはなにか。それは自らが問題を自分の中に作りそれを解くために問題を増やすという、拷問のような構造の中で生まれた誤解だ。



わたし達は、どうして自分の完全さには目を向けないのに、不完全さにはハイエナの狡猾さで飛びかかっていくのだろう。



私たちは、不完全であると自分自身を理解しているつもりでいる。そしてその不完全性を、何かの教理で埋めようとするためにありとあらゆる手段を取る。



自分の外面の不完全性については、言うべくもなく、女性は化粧をし、男性は体を鍛え、清潔を保ち、自分を完全なるものへと近づけようとする。



愛犬に対しても同じように、彼らの獣臭さを消すためならなんでもやるし、彼らの自由を不自由の首輪で縛るのは彼らの自由のためだと考える。




自分の内面については、己の性格の悪さを、心理学的に解析し、自分の認知を変えることで完全に近づこうとする。




もし私たちが、自分を完全だと思っているなら、何一つせずに阿呆のようにただ空を眺めていればいい。けれど生憎不完全性の鬼は、そんな悠長なことを許さないばかりか、私たちの人格を皮肉によって傷つける。



何が言いたいのか、つまりは私たちは自分たちで勝手に問題を作り上げては、自ら苦しむことを楽しんでいて、楽しんでいることにも気づかずに、問題を解決する自分に酔っているだけで核心には決して至らないということだ。



問題にならない問題に取り組んでいる人たちは、それがまるで一世一代の大事で、世紀の大発明かのように、ホームズの如く自分を取り調べている。

しかし、自分をどれだけ取り調べたところで、出てくるのは探偵にとって必要な情報だけであって、決して自分にとって欲しい情報は出てこない。



例えば、ホームズ探偵があなたの性格は悲観的すぎるが故に歪んだものの見方をしています。歪んだものの見方は、あなたを幸せにしないどころかあまねく苦痛を呼び寄せ続けるでしょう。

そういうことを見事言い当てたとしたら、私たちはそれは大変なことだと思うだろう。そして次にすることは、どうすれば自分の悲観的性格を治して、歪んだものの見方を変えられるか、そのことの解決に苦心するはずだ。


仮に科学が一定の対処法をその人に与えたとして、科学があなたの性格を変えるということがあるだろうか。心理学や脳科学は人の性格を変えるだろうか、あそこにあなた個人の実験データはなく、あくまで大多数の不特定な別の人間のサンプルデータがあるだけではないか。大多数のネガティヴな思考傾向が多少落ち着いたからと言って、それがあなたにどう関係するのだろうか。仮にその対処法であなたの悲観性が寛解したように思えても、あなたの奥底の不安は完全に取り除かれるだろうか。



気休めの薬でもいい。とにかく自分が嫌いな自分を好きになるためなら、何だって飲むし、何だってやるというなら、それはそれで自由なことであるし、そこに見出せる勇気ある精神にはある種の美しさすらある。



けれど、それを一体いつまで続ける気だろうか。生きている限り人は変化していくものだ。歳を取ればありとあらゆる問題が外見と内面共に現れてくるだろう。そうなった時、私たちはそこで産まれた不満の全てに対して、問題を作って解決していく必要があるのだろうか。






前向きな精神の美しさについて、特段賛美するまでもなく尊いものだと思う。自らを良くしようと研磨することもまた、健気に田を耕す愛すべき小人のようで、その無垢な後ろ姿に、彼を抱きしめてあげたいという思いにすら駆られる。




情報のリテラシーなどは問題ではない。それが問題であるなら、本当にこの世界に問題となり得るものなんてない。



問題は、いつだって自分の中の間違いを探して、それをいつも正してやろうと思う傲慢な心の方だ。今ある生に飽きたらず、自分の責任を不特定多数の論理に薄めて誤魔化してしまうことだ。



自分が自分であることの何がそんなに問題か。獣が獣であることの何が問題か。知らない国の人間のニュースを聞いて、真っ先に思い浮かべなくてはならないのは、彼らと私は人間であるということだ。そして私と他人との違いは、決して色や形や法則に左右されないということだ。私が私であることの一体何が問題だと言うのか。