「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

死ぬのにもってこいの日

もしそんな日があれば、実行してやろうと密かに計画を立てているけれど、一向にその兆候は現れない。足りないのは時間か、準備か、それとも環境か、考えてみても、その時は一向に訪れる気配がない。




不眠症で余った時間を、言葉の吐き出しに使う人間とは一体どれだけいるのだろう。そしてその問いに何の意味があるのだろうか。果たして共感者を求めているのか、その問いの大元には根深い孤独が潜んでいるのか。




しばしば自分の内面に注視してみても、特段あの頃と変わったところはない。あるのは感情の混沌であって、それ以外ではない。



何かに急き立てられるように時間を過ごすことも多いけれど、何故そんなことになるのか未だに分かっていないことも変わりがない。



不安症の原因として挙げられる自己肯定感といったものにも、懐疑的だ。もし自己を肯定する根拠を人が持ち得るのなら、人はきっと神を想像したりはしない。



私たちは所詮不完全な代物であるから、完全である何かを創りあげようとするがために躍起になり生き延びるのである。生き延びてきたのだ。



自分を安心させる材料を、心理学から拾ってくる作業にも疲れてしまった。前述したようなあからさまな原因が書かれているだけで、それが一体何を指しているのか、言っている本人ですらよくわかっていないのじゃないかと言う気がしてくるからだ。



心理学そのものの価値は十二分に世に知れ渡っていることだろうから、ここで語らずともいいだろうけれど。






死にたいとweb上で検索をかけると、どこかの相談窓口の電話番号がトップに出てくる。少なくとも、毎度同じような驚きと奇妙な感覚に襲われながら、私はその強調された番号を見ている。



ネット上を彷徨っていると、どこでどう検索したのか、以前にも見た個人のブログや体験談のサイトに行き着いて驚く。これはつまり私が私として何一つ変化が起こっていないということの啓示だろうか。

それとも長年使われてきた言葉の癖が、気軽に飛び出してきたというだけのことか。




こうしてブログを書くことも、実は何度も始めては取りやめになってを繰り返している。

それでも書いているのには、何か多大なる意味が有れば良かったのかもしれないが、思うに正常な人間がやることではない。



私は日記を書こうと思って何度も取りやめになったことがある。そしてついには以前書いたものも捨ててしまったが、いくつか残っているものを読むと、表現は違えど変わらない精神のあり様に落胆しどこか安堵する。



思いの外、鋭くことの本質を突いたかと思えば、途端に道を外れて的外れな論を展開する癖は、いつになっても止まることを知らないまま進行しているようだった。



何故日記を書いたかと思い出してみると、あれは遺書であるというのが一番しっくり来た。



私はあまり自分の生存について、執着がない。というより、生存することの価値を感じていない。一方で感じているけれど、それ自体はあまりに普通のことなので、気にもとめていない。仮に私が落雷に直撃を見舞われたとしても、それ自体は仕方のないことだと思っている。そして現に、どのような死についても同様に同じことが言える。



死について本当に言及出来る人はいないだろう。けれど、人は死を恐れ人の死を悲しむ。



親しい者が災害によって亡くなれば、不運だと嘆き、病気によれば不運だと嘆き、その他尋常ならざる事情によればまたしても彼らがそのように創られたことへの不運を悲しむ。



だが、それが本当に不運であったと誰が言えるだろうか。悲しいことだと誰が言えるだろうか。言えるのは残された人だけである。死人には生憎言葉がないので、仕方なく彼らは黙っているに過ぎない。



私たちはつい全てを感傷の下に晒してしまおうとするから、事実を見えなくしてしまう。死そのものは感傷されるものでも、感傷的な事柄にすらならない。それは明白でありながらも、人間は死を個人的なものにしたがる。



死は当然普遍的なものである。あれは必ずやってくる、遅いか早いかの違いに過ぎない。どのような死に方であっても、報われるも報われないもない。可哀想も悲惨もない。あるのは残された者の悲鳴だけである。死はあくまで私たちに一つの終わりを見せているだけだ。



けれど、どうにも私のような感覚は人には理解できないらしい。彼らはあくまで論理で私を論駁するけれど、私が言っていることは論理ではないので鼻から何にもならないことはわかっているだろうに。



そもそも論駁する人すらいない、というのが実際であって、普通相手にすらされない。



取り違えて欲しくないのは、あくまで死について執着がないというのは、こうならなくてはならないというものがないということだ。

死に執着する人は、まずそれを感情的に捉えようとするけれど、恐れや後悔や未練のスコープで覗いたところで、ただの個人的価値観に満足するだけで終わる。



執着がないというのは感情的なレベルの話であって、あくまで恐れていないというだけだ。恐れていないから、当然いつ死んでも構わないということになる。だから生存に気づかう必要がない。一方で気遣っているように見えるなら、それは感情によってそうなのではなく、ただ動物が生まれた場合、死に向かって忠実に食べ物を何も考えずに食べることをしているだけである。



もっと言えば何も考えていないから、死なずに生きている。けれど、生きることの苦痛を苦痛と認識するから、死に日和を待っている。





私は非常に不完全で曖昧な理解の下に生きている。現に死を恐れないと言いつつ、生を恐れている。死を感情的に捉えていないと言いながらも生を個人的に捉えている。

結局のところ私は何一つ感情から抜け出せてはいない。むしろ半端な理解は、無知よりも毒であることを思い知らされるばかりで、自己矛盾に陥ってはのたうちまわって生きているようなものだ。






死にたいなら勝手に死ねばいい。

かつて自分が放った言葉をそっくりそのまま自分に返してみる。返答はない。