「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

何もかも馬鹿らしいと感じた時

何もかも馬鹿らしいと思うことなど、幾度もありすぎたせいで、もはやそうではないことの方が少ない気すらする。それは社会に出ればより一層深まっていくように感じる。



そもそも、何をどう馬鹿らしいと思っているのか、考えてみてもよくわからない。

けれども、どうやらこの世界に生きていると私のような人は不規則に馬鹿らしくなるらしい。


馬鹿らしい。ああバカらしい。

何度言っても空虚な言葉だと思う。馬鹿らしいという言葉には、何ものをも寄せ付けない相当突き放したニュアンスを感じる。


そう。まさしくそう思っている時、思わされている時の私は何ものをも拒絶し撥付け、触れてこようものなら咄嗟に身体全体を仰反ってしまうような、独特の自閉症を起こしている。


人は何もかも馬鹿らしいと感じる時、それは無力感というものが強く関与しているのではないだろうか。


無力感、つまり何をしても何をやっても自分という人間の果たせることなどない。軽い影響としていずれ流され、ましてや自分自身が世界に名を残すことも誰かの特別な存在になり得ることもない。あるいは、その望みが叶ったとしても、それはただ己の自己満足が満足しただけであって、何の解決ももたらさない。よって、自分が何をしようがこの世界は残酷かつ冷酷無比で素っ気なく、自分自身もまたその世界同様に何ら光あるものともなれない。


そんな漠然とした展望が極地まで導かれた先の答えが、「何もかもが馬鹿らしい」ということではないか。何もかもどうでもいいということではないか。



けれど、そうは言いつつも私たちは明日の支度をするのである。来週の予定をぼんやりと考え、将来の貯蓄をし、算段をし、出来ることなら円滑に事が進んでいくことを望み眠るのである。


そんな毎日が、瞬間が続いていく。しかし、その背理には破滅的な思想があり、もくもくととその私怨をどこかに沸き立たせている。



思想と言ったが、むしろそれは感情というもので、そう思わなければないも同然のもので。けれども、そのやり場のない感情をぶつける先も、この世界ではそれほど丁寧に用意されていない。この世界というのもまた、その人が見る世界ならば、そもそもは全て自分の中での話とも言えるのだけれど。


世界は醜いだろうか。残酷で冷酷無比だろうか。あるいは素晴らしいだろうか。戦う価値があるだろうか。


結局は、それを決めるのはその人自身であってそれが価値観というもの。



価値観というのは、価値観でしかなく、それはピーマンが好きか嫌いかを言うことと同じで、論争には決してなり得ない類のことだ。


だから例えば、世界が馬鹿らしく思えるからといって、それ自体は世界が本当に馬鹿らしいという根拠にはなりえない。

大切なのは、そのことをその時思ったということで、そう思ったのがその人であるということなのだ。


そもそも馬鹿らしいというのは、何に対して向けられているのだろう。世界とは何を指している。社会か、それとも世界観のことか。


一般には社会だろう。社会とはこの社会、つまり労働と賃金の社会だ。それは実体としてはないけれど、人間たちが知恵を絞ってより効率的かつ平和的にやっていく方法を考えた時に集団を作りルールに従わせることが有効だとしたために、そのかたまりを「社会」という言葉で概念化しただけだ。要するに社会というのは、鼻からその姿を一度たりとも表したことなどないのだ。


しかし、あると思っている人にとっては確かに社会はあるように思えるのだ。現に周りは「この社会は」と言っている。なら、きっとあるんだろう。この感じのものが社会だろう。


それはそれとして、社会に限らずとも世界というものを「人の営み全て」とするなら、それは確かに存在するかもしれない。もっと簡単に言えばそれは「人類」という言葉で表せるだろう。


それは巨大な視点に立ってみれば、なるほど、人類というのは非常に愚かな生き物で、それ故に多くの失態を犯してきた。現在に至っても、それはわかりやすい形で表面化されないだけであって、三千年前よりその本質は変わっていないかもしれない。

「その根拠は」と、どこかの平和主義者あるいは人類博愛主義者は言うかもしれないが、根拠も何も、少し考えてみればわかることで、それは当然裕福の指標などということでもなく、もっと実感的なものであり、その不幸な実感を感じている人がまさしく無意識にも「何もかもが馬鹿らしい」と呟くのではないだろうか。

これは思想というようなものではない。仮にそれが利益至上主義の資本主義というお金の目眩しを拡大させる構造が原因の一端を担っていたとしても、人類というのは初めからそうした方向へと進むことが決められていたとも言えるのだから、ある意味では運命というものかもしれない。


人類は、火を起こし、あらゆる道具を作り出し、生活を便利にしていく知恵をいくつも生み出した。そして、空を見上げ、煌めく点々の光景について神秘的な想いに駆られその正体を掴みとろうとした。あるものは、私たちが足を踏み鳴らし歩いているその大地に目を奪われた。あるものは瑞々しくも流れる生命の泉の取り憑かれ、あるものはまた何かを知ろうとした。それがそこにあるという意味を知ろうとした。そしてそれがいみじくも科学と名付けられ、学問となり発展して現在の私たちの生活を支えている。こうしている間にも科学の進歩は止まるところを知らない。彼らは一度抱いた疑問を追及せずにはおれない。なぜか。それが人類という、人間というものの本質だからではないだろうか。


となれば、科学というのは人間がいる限りその発展をやめることをしない。であれば、コンピュータ技術はますます進歩し、それを資本とした経済の流通が促進され、医療技術は人間の平均寿命をどこまでも引き上げ、私たちはこの科学的世界をより長く楽しむことができるようになる。


物質は豊かになり、生活はより簡便になる。物質的世界が求めるものは常にそれを手に入れる手段である。手段即ち金が第一にもてはやされ、私たちは知らず知らずのうちにそれを第一に効率的に手に入れる方法を考える。便利の代替となった時間は労働に回され、より順序よく無駄なく大量に大規模にお金を生産していく。そこで得た潤沢な資金を使ってまた物を買い、金が基準になった世界では上と下を金で決めるのだから、やはりどこまでも裕福を恨み、貧乏を恐れる。物。もの。物。どこまでいっても物のある無しに支配される。かつての夜空の煌めきに想いを凝らした人類の誠に純粋な驚きはどこに行ったのだろう。この技術社会の発展の先に、全人類が望む世界観とでも言うべきものが想像できるだろうか。



この世界で長く生きていたいと思うだろうか。何のために健康を大事にし、長寿を尊んでいるのかもわからないような人が指揮をとっている世界で。






長々と書いてしまったが、「この世界」に何を思おうと、やはりそれは人の勝手であると改めて思う。けれど、何か漠然とした馬鹿馬鹿しさを感じるとしたら、恐らくそこにはそれなりに真っ当な理由があるのだと思う。


しかしだからと言って、何もかもが馬鹿らしいままでは、どうあがいても待っているものは絶望である。そしてそのうち、絶望の化け物に喰い殺されるのがオチだ。


それが分かっているから、きっと誰かも「何もかもが馬鹿らしい」とか「何もかもがどうでもいい」ということを思う自分について、このままでいいかと人に確認をとるのだと思う。対策を伺うのだと思う。



けれども残酷なことに、自分が思っているそのことについて、本当にそれが正しいかを知ることができるのは自分だけであって、人に聞いたところで分かることは決してない。

どれだけ権威のある、あるいは経験を積んだ知者であっても、あなたの感情を変えるだけの力はない。


あくまで、彼らの言葉に耳を傾けて、その感じ方をもたらすのは自分である。そのことの意味をよく分かっていると、自分自身の抱いた感情について、それが正しいのかどうかということがわかる。


このわかるというのが非常に厄介だけれど、例えば、何もかもが馬鹿らしいということに少しでも疑問を持った自分があるのなら、それはきっとそこに何か誤りがあるか、考え損ねている箇所があるということを感じたということでもある。


つまりは、自分の声に耳を傾ける、その声に耳を傾けた自分の声を聞く、それにまたどう思ったかを感じる。そんな過程があるんだな、というような話。





ああ、とは言っても、やはり人類はもうあまり良い方向には行っていないのだろうなとは常々思う。

けれど、きっと何回目かの人類が、もっと上手くやるだろうから、それまでは人類にはたくさん失敗してもらって、学んでもらって、上手くいった頃にまた呼んでもらえば。


それまでは、ひたすら考えて考えて、あの夜空の煌めきについて驚きを感じながら、私だけの絶望感と向き合って、向き合って、後は終わりが来るのを待つ、そんな事を言えるようになりたい。