愛について
いまさら書くことでもないか。
愛、愛、愛。幾度となく語り尽くされたこの愛について。
愛する愛されるということを根源的に実感したことがない。実感したことがない人間が、語ってどうなることでもない。どうなる事でもないなら語っても別にいいか。
言葉というのは残念ながら、誰々のどんな人が語ったかということなしではなかなか人に伝わらない。
それが分かっているから、当然素性も知れないブログに書かれた言葉など誰も気に留めることもなく流し読みされていくことも理解している。
無視されることがわかっていながらも書くのは、ドMだからでも、目立ちたいからでもなく、ただ言葉を信頼しているからだ。
信頼?宗教的な意味合いはない。魔法でもない。けれど言葉は一種の魔法だと、いつか気づいた時から、もうすっかり言葉を信じてしまっている。
そのうちに言葉を書き、言葉を見て聞くことに対して、それ自体が偉く当然ながら当然でないように思える。神秘ですらある。
人はそれぞれ互いの言葉とその感受性でもって、全くそれぞれの理解を持ちながら共通に対話を繰り広げていく。
ある人がAと言った、と相手は理解した。けれど、その相手が理解したAは、はたしてある人が思ったAか。
当然言葉は常に相手側の解釈や感受性に委ねられている。どのような言葉一つとっても、それが発せられた真の理由は発話者にしかない。だが会話は成立する。なぜだろう。
考えてみるとおかしな事だ。それぞれがそれぞれの理解仕方でしか理解できないことが決まっているのに、会話ができるというのが。
だがもうその事自体が、私たちが普段語る言葉の裏には、私たちも自覚し得ない共通の概念があるということの証明ではないか。
そうでもなければ会話などできない。
当然言葉をその言葉として理解するために言葉が必要なら、言葉の起源においてそれを否定することもできない。
となればいよいよ言葉の正体は魔法じみてくる。
言葉は、魔法である。
ところで、愛について。愛とはなんだろうか。そうしたことについてきっとプラトンの方で上手く語られていることだろうし、今さらトーシローが語る事でもないのかもしれない。それに私は愛をよく知らない。その実感が薄い。
例えば時々人恋しくなることがある。これは愛に飢えてのことなのか、考えてみても当然わからない。そしてその内にその気持ちは雲散霧消する。
あれはなんだったのだろう。後で考えてみてもあまりよく分からない。ただ、時々、それに似たようなものを感じることがある。そしてどうにもそれが大切に思えて仕方がない。そのことをもっとよく考え感じなさいと、誰かに言われているように感じる。
狂った愛というのがある。私はああいうものを信じていない。愛憎という言葉も。
愛するが故に憎むという事自体が、愛ということとうまく結びつかない。
それはその身になってみなければわからない、といったことでもないと思える。なぜだろう。
狂った愛とは、狂おしいほど相手を愛するという事である。では、狂うということは良い事だろうか。良いことではないなら、愛することが良いことであるという点に反する。
そもそも愛することが良い事でない可能性もある。しかし、もしも愛が私たちのイメージする通りのあの温もりのことを指すのなら、あれが悪い事だとはどうしても思えない。
そして狂うということはどうしてもその人にとって良いこととは思えない。狂うとは何かに狂うということで、そのことに取り憑かれるという事である。取り憑かれた人間はもはやその人としての意識などなく、正常ではない。正常でないまま生きることが良いこととは思えない。そして狂人である限りそれは同じ事であるなら、やはり狂った愛というのはどうにも成立しないように思える。
良いことと悪いことが混在するということが、あり得るとも思えない。あり得るとも思える例外はある。例えば、自分の身を守るために防衛として殺人鬼を殺す事。この場合、どうすることが良いことかはわからない。
けれど、これは選択が生死に関わっていて、ほかに方法がないという場合である。
狂った愛とは、狂うことを明らかに指向しているばかりか、狂わずに済む愛について考えていない。狂わない愛もあるのなら、それこそが愛であり、その愛こそ求めるべきじゃないか。
そしてそうした余地がありながら、考えずに狂いに耽溺することはもはや悪と言ってもよく、愛ですらないのではないか。それは怠慢ではないか。
つまりは、狂った愛は愛ではない。だいぶお粗末な論法かもしれないが、面倒になったので要約するとそうだ。愛憎もその類だ。
愛を知るために、愛ではないものを知れば自ずと愛がわかるのではないかと思ったが、一つ一つ正していくことは骨が折れる。
少なくとも、狂った愛は愛ではない。そして世の中には誤った愛が蔓延っている。それ自体は人の自由だから勝手にしろなのだけれど、愛を見誤ることほど悲しいこともなく、そうした人を見るととても哀れに思う。
少なくとも愛の片鱗を掴んではいるが、いかんせんかき慣れず言葉も足らない。本来なら書き直す必要もありそうだけれど、もうそのままで、いつかもう一度考え直したい。