「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

信じるよりもまず知る

人はいつも何かを信じている。自分の可能性や、将来への漠然とした希望。絶望すら信じている。


何かを信じているからこそ何かができる。何も信じていなければ何もできない。現に今何かを書いている人がいたら、その人は言葉というものを信じていて、書くということを信じている。そして書くことを信じている人は、伝え伝わるということをどこかで必ず信じている。信じていない人間がどうして書くだろう。信じていない人がどうして敢えて人に言葉をかけるだろう。私たちは無意識にしろ意識的にしろ、言葉を信じている。


そんな当たり前なことを言われても、誰だってそんな事はわかっていると言い返したくなる。それとも、そんなこと自体には何の意味もないと思う人もいるかもしれない。


私は、「信じる」という言葉をふいに頭に思い浮かべる度に、思い出したようにその言葉の不思議さに戸惑う。信じる、信じている、と簡単に言ってきたけれど、よくよく考えてみるとこれほど不思議な言葉も珍しい。


あなたを信じている。それはつまり信じているということである。信じているとは、信頼していると言い換えてもやはり「信じている」だ。


信じるを別の正しい言い方に表せないだろうかと考えてみても、いまいち浮かんでこない。結局のところ辛うじて近いと思えるところで言えば、「愛する」ということになるだろうか。


信じるとは、全てを受け入れるということでもある。そしてそこにはもちろん、疑問が存在しない。「信」の反対は「疑」だ。ならば、信じるとは、疑問がない状態のことを指すとも言える。


だが、愛するには疑問が少なからず含まれているものではないだろうか。何故なら、相手を愛するとは、相手の全てを受け入れることではあるが、相手に対して何一つ疑問を抱かぬままに愛するということが果たして現実的な状況とは思えない。


むしろ、愛するからこそ相手を知ろうとするために「疑問」が生まれ、その疑問こそが「信じる」ために生まれたものではないだろうか。愛するとは、相手を信じるために知ろうとするために疑問を抱く行為のことではないだろうか。


とすれば、やはり「信じる」は「信じる」以外では表しようのない特異な言葉だ。その点で言えば「愛する」もまた特異ではあるけれど。





私たちは、無意識に意識的に何かをいつも信じている。そして信じようとしている。そして何ものも信じられなくなった人は、世界を捨て、新たに自分にとって都合の良い世界を信じようとする。そうしなくては死んでしまうから。強迫的に信用できるものを探す。


「盲信」


それが誰かにとってはお金であったり、自らの成果であったり、最たるは宗教であったりする。


宗教を信じる人は、宗教に入信し、盲信することから始める。特に世を騒がせた新興宗教などに入信するものは、初めから「信じる」ことから始める。


「絶対的真理、教理」というものを持つ豪語する教祖の言葉を盲信する。そして、そこに最後の望みを託す。祈る。どうか真理でありますように。救われますように。そして祈り続けた結果、立派な教徒ができあがる。


彼らに疑問はない。なぜそう言えるか。疑問を抱き、真に真理を信じようと思う人なら誰だって知ることができるからだ。この世に絶対的教祖などあるわけもなく、誰かの思いついた教理を全うすれば幸福になれるなどという絶対的保障などあるわけがない。


「入信すれば救われます。」とは、いわば丁重な脅迫である。なぜなら、どのような宗教的秘密兵器があろうと、そのような外部の人間が作り出したもので、考える人であるその人が救われるはずがないからだ。考えるということが、もしも単なる論理的思考ゲームのことを指しているのでないならば。


「どうしたら幸せになれますか。」

「どうしたら苦しみから逃れられますか。」

「どうして生きなくていけないのですか。」


それを全てある所属集団全員が信じる教理に託すというのは、自分という人間を組織の中に投げ入れてなかったものにするようなものだ。なぜそのような事をするか。それはそうすれば全ての責任を組織に押しつけることができるからだ。自分が傷つかないようにするためには、自分をなかったことにして仕舞えば良い。社会とて同じ事だ。


たった1人のこの自分に一生向き合うことなく、ただただ祈り盲信し生きていくことが、どうして幸福だろう。どうしてそれが正しい生き方になるのだろう。



あなたが神様かもしれないのに、誰かが言ったよくわからない会ったことも見たことも触れもしない感じることもできない神様の言う事を盲信できるだろうか。感じれたとして、それが本当にその神様なのだと考えずに信じ続けることなどできるだろうか。


あなたは気づかないだろうか。神様がいるかいないかということよりも、神様がいたということよりももっと重要なことに。


その重要なことを知るためには、考え続けなければ何一つその一欠片すら知ることもできない。もしもっと重要なことがあれば、しかもそれがあなた自身の中にあるのなら、これほど不思議なこともないと言うのに。


あなたがどれだけ教祖の言葉に感銘を受け、幸福感を覚えようとも、そこでそう感じているのはまさしくあなた1人だけなのです。あなた1人がそこでただ感じ、そこにあるのです。このことの不思議に気づけば、世界など新たに構築せずとも、教理など編み出さなくとも、全てはもうそこにあると思いませんか。



「知る」よりも前に「信じる」が来る事は決してない。「信じたい」からこそ「知ろうと」するのだから。ただ「信じる」ということは、それ自体が盲信であって、それは洗脳であり妄想です。全てを信じるために全てを疑うほどの尊厳が、人間には等しくあり、だからこそ私たちは考えるのです。





そしてその繰り返される過程が、「愛する」ということだと、私は密かに睨んでいるのですが・・・。