「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

死にたければ死ねばいいのに

「死にたい」「死んでもいいかも」

「死ぬほどつらい」「やりたいこともない」

「あるけど、別にそれほどでも」

「何もする気にならない」

「こんな人生なら意味ないし、もう終わりにしてしまおうかな」

「なんなら生きてる意味なんてないんだし」

「でも死んだら悲しむよな、不幸者だ」

「あぁ、なんでいきてんだろ」

「なんで、しんでないんだろ」





「死ねばいいのに」






死にたいと言いながらも、生き延びる人の心性というのは、当たり前にもその逆のことを表している。


死にたいのなら勝手に死ねばいいのだが、死にたい死にたいと呟きつつもタバコを口に挟んでみたり、肉を喰らったりするのは、どういうことか。


いかなる死ねぬ理由を羅列させようとも、それが死ねないと思っているのはまさにあなたの勝手だ。あなたが勝手にそれを死ねない理由にした。それを愛と呼ぼうが不幸と呼ぼうがなんと呼ぼうが、全てはあなたという神様が決めることだ。


ああだこうだ言うにして気が落ち着けば腹も減るし、すると勝手に体が動いてあなたの意思に関係なく食事をとる。そんなことあるわけがない。


腹が減ったから食べようとしているのはあなたの意思だ。あなたが食べようとした。何のために食べる必要があるのか。死にたいと言うのに。


違う私は食べない。食べずに穏やかに死んでいく。餓死は穏やかには死ねないらしいじゃないか、痛いのはごめんだやっぱりやめた。


そうやって死に方をいくら探そうが、どれだけ条件の良い物件選びをしようが、やることは万に一つ決まっているじゃないか。さぁ、はやく手近な切先をその臓に食い込ませ破裂させれば良い。すると、簡単に事は済む。意識のなくなったあなたに、肉体を捨てた後のあなたに一体何ができる。


立つ鳥跡を濁さず。冗談じゃない。自ら死ぬと言う事はそれだけで酷く腐臭漂うことなのに、自分の体液の処理を今更気にするとは、順番がまるで逆じゃないか。


いっそもうやると決めたなら、手段など構うものか。恐れなどはっきりと自覚して内省などしないうちに人想いに殺してしまえばいい。それだけのことだとは、思わないだろうか。




死にたければ死ねばいい。

死にたければ死ねばいい。




けれど、死ねない理由を人のせいにするのだけはやめてくれ。あんたが勝手に死にたいと呟くことも、死ぬことも構わないが、こっちのせいにするのだけはやめてくれ。


死にたいと思ったのはあんただろう。死んだのはあんただろう。あんたがそう思ったから死んだんだろう。


あんたがどんな人間かなんてこれっぽちも知りはしないが、あんたはよく知ってるんだろう。あんたの事をよく知っているあんたが死にたいと言ったんだ、それ以上周りに何が言えるっていうんだ。


引き留めたらきっといつかあんたはこう思う。


「どうしてあの時引き留めたの。あの時あなたが引き留めなかったら、私はこんな手遅れになる前に死ねたのに。」

「あなたが悲しむから、私は死ねなかった。」



引き留められたのはどっちだ。悲しんだのはどっちだ。どっちもあんたのことじゃないか。





死にたいなら勝手に死ねばいい。

生きたいなら勝手に生きればいい。

死にたいと思うなら、「死にたい」と呟きながら生きればいい。






誰も何も言ってない。どうも言ってない。さっきからずっとそう言ってるのはあなただ。あなたが言っている。ずっとずっと。

誰も何も言ってない。あなたが死んで欲しいだなんて。あなたが生きて欲しいなんて。


何も言ってない。でもあなたが言っている。ずっとずっと。


今だって言ってる。ずっとずっとあなたが遠い遥か昔から思っていたこと。あなたがあなたであるということ。あなたが決して手放さないものたちが、あなたに全身全霊の声をあげて、今にも泣き出しそうな顔で叫んでいる。ずっとずっと、叫んでいる。


「ここにいる。」