「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

言葉なんて何の価値もない

考えるよりまず行動しろ。


と誰かが言う。そこにはこんな意味が含まれている。


「ただ頭の中で机上の空論を並べているくらいなら、行動して経験した方がよっぽど為になる。」


世の中の人の大半は、考えるということを思い悩むことだと思っている。そのせいか、考えることは経験よりも劣っているととられる。


もちろん、もし反芻思考のように同じことをいったりきたりただ思い悩んでいるのでは、行動した方が余程ためになるかもしれない。



けれどもそれは重い悩んでいる場合だ。悩みとは、例えば恋人がいないだとか仕事がうまくいかないといったことをグジグジ悩み続けるということだ。それらは全て、その気になれば努力によってどうとでもなることとわかっていながら、その発想の転換を敢えてせずにそこに好んで留まり自分を慰める行為が悩むということである。


悩みは何一つ人を前進させない。そればかりか、人を極端に狭く弱い人間にする。


だが、一歩そこから「なぜこれほど思い悩む必要があるのか」ということを考えていくと、現実認識が改まってくる。


とは言え、妄想と偏見で歪んだ現実認識を改めるのは一朝一夕とはいかない。


例えば、「恋人なし=魅力のない人間」というような図式を刷り込まれている人は、その呪いを解くために、「なぜ恋愛をする必要があるのか」といったことをひたすらに真摯に考えていく必要がある。



もしそれらが面倒だと思うのなら、いつまでもその誰かの呪いの言葉に取り憑かれたまま、本当に魅力のない人になっていくだけである。


仮に恋人ができたとしても、今度はできていない人間をどこかで見下すような、勘違いを今後も塗り重ねていくという未来が待っている。


そんな明らかに正しくない現実認識のまま生きていくことを心の底から望む人などいるだろうか。



こう言い換えよう。



正しくない生き方をしたいと思う人がいるだろうか。



どんな悪人であっても、どんな悪事を行う人であっても、彼らはその行為を正しいことだと思うから行なっている。



もし正しいと思えなければ人は実行しない。悪いと思ったけれどもそうするしかなかったから実行したのであれば、それはそうするべきだと思ったからで、そうすることが正しいと判断したからだ。


ならば、誰もが自分の行っていることを正しいと思い行なっていることになる。



だから、どれだけ思い込みに満ちた生き方をしていようが、当の本人がそれが正しいと思ってしまえば、それまでなのである。そしてそんな人間が、どれほど世の中でふんぞりかえって我が物顔で弁舌を振るっていることだろう。




考えることは現実の正しい認識である。机上の空論はまさしく思い込みに満ちた行動そのものである。それは極論にしても、正しい現実認識なくして行動ばかり先行させるのは如何なものだろうか。


経験もまた、感じた情報を咀嚼し考えることによって獲得された知識だというのに。