「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

私とは誰か

私とは誰だろう。


いつもこんなことばかり考えては、日常生活が立ち行かなくなる。だけど、時々無性によくわからなくなる。変な感覚に襲われる。


まるで別の人間になったような気がすることがある。例えば動物と触れ合っている時、そこに私はおらずただ動物を思う気持ちだけがそこにあるかのようになる。


かと思えば、誰かに殺意を覚えることもある。その矛先が自分に向くこともある。


あるいは、「守りたい」という言葉以外では形容できない何かが浮かんでくることがある。


これらは一時の感情である。気の迷いである。決して情緒不安定なのではなく、感情とは私の意思に反して季節の如く移り変わっていくものである。いや、根本的に人間とは情緒不安定だとも言えるかもしれない。


そしてその時々の感情によって動かされる「私」それを観察する「私」とが混在している。



すると、私は常に二人存在していることになる。だが感覚では二人ではなく、もはや何人なのかも見当がつかない。


観察する自分、動く自分、それらを全て認識する自分というような複数の私がいる。


私とは誰なのだろう。


もう一度問うと、やはりわからないと言うしかない。私は複数いてそれぞれに動いていて私の意思で制御できない。強いて言えば、観察するときにおいての私は意思によって動かせている。



ちょっと待って欲しい。観察している自分を動かしている意志とはなんだろう。


つまり、観察を意志するもう一人の私がいるということになる。


すると、結局はその観察するという行為すらも、実際には私が選んでいるわけでは真に無いということだ。


極論、私は私の意思した存在ではない。「私は」と自論を展開し自分語りをする人の多くが、私というものはこれこれの性格でこんな人間であると理解している。


しかしその理解したつもりの存在は、全く私達の理解の及ばない世界の住人ではないか。


言葉の限界。私が私を考えるということの矛盾。そもそも、私が誰だかわかるのであれば、自己分析など必要はない。わからないからするわけで、一方で自己分析によってわかる性格特徴などというものは、特徴でしかない。


いわば、しまうまの柄はこんなですよ。と言っているようなもの。


肝心のしまうまって何ですか?に対しての答えじゃない。いくら、気性が荒いとか、こういった食べ物を好むと知ったとしても、実はそれを嗜好する本質の存在に触れていない。


私たちは人であるから、その存在を疑うことができる。それはつまりどういうことだろうか。何故主体であるはずの自分を疑えるようにできているのだろう。ただの偶然だろうか。それともこの事態を単なる言葉遊びと捉えるだろうか。




結局私は誰なんだろう。使い古された主語名詞としての私は、私ではない。それは言葉の主語であって私ではない。私とは私を考えるこの私であり、いまここにいるこの人であり、性別的属性、社会的属性、外見的属性を持ったこの人間である。この存在である。



まさにこれを書いている人間のことである。