「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

手書き・考える意味

思考を整理するとき、科学的には手書きの方が良いらしい。前頭葉がより働くとか、ストレス解消になるとか、そうした可能性が示唆されている。


そのためか、普段はなるべく紙に書いて考えるようにしているけれど、大体は書くこともなく頭の中で延々とモノローグの形で出力され続けているだけで書くことの方が稀だ。


それでもたまには書いたりもするわけで、やはり書くこともまた頭で考えるのとも違う。


話すこともまた違うが、とにかく頭で考えた事柄のいくつかを適当に書き置いておく場所としてデジタルは簡単で容易に取り掛かれる。


夜になると思考が増えるのは、どうしてだろうか。クロノタイプの問題か、月の影響か、はたまた気のせいか。いずれにしても、いつも書くとなれば夜である。


何にせよ、何かをいつも考えている。改めて考える意味について考えてみても、やはり考えることは常に何をするにも前提としてある。


特段私に限ったことでもなく、人は何かを考えるからこそ思い行動が生まれる。

考えるとはもはや人間そのものである。


「考えずに行動する人」は現実には存在しない。だが、一般的にそう言われる人の考えとは感情とでも呼ぶべきものだろう。


では感情とはどこから来るかと言えばやはり自分からしかなく、結局は全て自分に返ってくることになる。


感情が考えでないならば、考えとはなんだろうか。考えとは論理的思考のことだろうか、それとも自説自論のことか、でなければ単なる言葉の羅列か。


一つ言えることは、考えの発端が自分であるということ。そしてその自分が「幸せだ」と思えば幸せであり、「死にたい」と思えば死にたいということだ。であれば、考えることは「思う」ことに似ている。


私たちは常に何かを「思い」続けている。そしていずれそれが「考える」になり、ある人は何かを盲信し考えることをやめ、諦めの悪い人は延々と考え続けている。


まさしくその諦めの悪い人間がここでこうして書いているわけだけど、そもそも考えることに終わりがあるなど考えることも想像することも出来ないから仕方がない。


またある意味では盲信している人ですら、あるいは私ですら考えているつもりで盲信している可能性もある。けれど、常にそのことを疑い続けている限りは、考えの歩みを止めることはできない。


考えるとは人間の存在理由そのものであり、考える意味とは生きることそのものである。これがもし大袈裟に聞こえるなら、言葉なくして人は生きてはいけないということそれ自体が十分な現実じゃないだろうか。