「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

私は絶望を知らない

絶望した。どん底に落ちた。

そういう気分に害された事は何度もあるけれど、ふと周りを見渡してみると、もしかすると自分のこれは絶望に凡そ足りていないんじゃないかと思えてくることがある。

 

 

そもそも絶望とは、どんな時にその言葉を思い浮かべるだろう。

何もかもうまくいかない時だろうか。自分の持てるカードを全て使ってもなお、変わらない生活と環境と自分自身の性格やぼんやりとした不安が消えないことだろうか。

 

 

とにかくなす術がないと思っているのだ。

私には何もする力もやり遂げる力もない。何かを成し遂げたとして、変わるものなどたかが知れている。そもそもしたいことも大してないじゃないか。周りを見渡して始めたことばかり、ろくに自分の意見なんてないじゃないか。

 

 

 

そういう気持ちが、人に話しても晴れず、納得が行かず、自分自身でも吐き出し切れないものに変わった時、人は絶望するのだろう。

 

 

 

それでも、私は本当に絶望を知っているのだろうかと疑問に思うことがある。

絶望とはなんだ。確かにそうしたやるせなさや気分の悪さの最高潮を指すのが絶望でも、それが一体どういうものか、本当に理解しているんだろうか。

 

 

 

私たちは意味もなく、悲しくなったり喜んだりはしない。そこには必ず原因があって、その結果としての感情がある。

 

 

絶望に対してもそうだ。私たちは、ひたすら悲しくなったと不安に思ったりするが、その感情に本当に向き合おうと思ったことがあっただろうか。処理し切れなくなった感情を、絶望という言葉で簡単に濁していただけではないか。

 

 

 

 

少なくとも私はそうだった。

絶望など、本当は知りもしない。あの言葉の一端だって、私は知りもしない。あの大袈裟な言葉があるせいで、人は真摯に自分の気持ちと向き合う機会を、絶望に酔いしれる自分に落としてダメにしてしまう。

 

 

あの中途半端な絶望という言葉が、私は好きではない。絶望という言葉を簡単に口にするのは、自分自身には何も責任がなく全ては他人のせいで、ただ不幸を嘆いているだけのように思える。

 

 

事実、私は私が絶望を見出そうとする時、そこに酒酔い時より酷い自分の陶酔を見る。

あんな陶酔を許せば、自分の人生は自分には何一つ太刀打ちできない代物だと豪語する阿呆に成り下がるだけだ。けれど、あんな阿呆はどこにだって簡単に作られる。

 

 

 

 

ここまで言ってみて、じゃああなたは何を言いたいの?と誰だって言い返したくなる。

実は私にもよくわかっていないけれど、それはわかっている部分とわからない部分があって上手く言える自信がないという意味で。

 

 

 

でも、ただ何か、絶望を安易に持ち出す人を、あるいは自分自身に安易に発狂する人を、放って置けないという気がした。

 

 

 

ここまで強い言い方をしながら、実際人が絶望という言葉に逃げるのも、破れかぶれに発狂するのも、あるいは何も受け入れずに変わらないままそこに留まろうとすることも、珍しいことでも非難すべきことだとも思っていない。

ただ、どうしてそこまで阿呆なのか、阿呆のまま苦しもうとするのか、これは多分余計な感情が混じったせいで語気が荒くなった励ましのような気持ちでいるのだけど。

 

 

 

誰が励ましてほしいなんて思われていないのは承知で、なら過去の絶望に酔った自分自身を励ますためにきっとこれを書いている。

 

 

 

 

 

 

 

話は変わるけれど、

昔は、よく人間の心理を分析するみたいに、自分の心を分析して、自分の中で起きていることを明白にしようとした。

 

 

だけど、自分が立派な分析家になったと思った頃、人を見てあれこれ分析し出してはわかったフリをする自分がイヤになった。

 

 

どれだけ相手を論理で理解しようとしても、相手の心はわからない。むしろわかったと思った瞬間に、傲慢で曇った目のせいでもっともっとわからなくなる。そうやって人を見る目が濁ってくるのが嫌だった。

 

 

今だって時々、その癖が出てくる。人のイヤな面ばかり見えてしまう。それはもう性分になりつつある。けれど、それでも自分なりに自分の醜さと向き合いながら変わってきた事はいくつがある。

 

 

それでもやっぱり人と自分を比べてイヤになることが多い。ああしょうもない自分。何もない空っぽな自分。そう壁に語りかけたくなることがある。

 

 

 

日々ぐちゃぐちゃにかき回される感情に対処するだけで精一杯な時もある。そんな落ち着かない自分に苛立ち、自分の世界に引きこもりたくなる。けれどやはり、自分だけの世界なんて本当にたかが知れている。

 

 

 

パッとしないそれどころかカースト下位の現実と、自分が夢見続けたい手放したくない理想が、例え妄想であって、それが足元から崩れ落ちたと感じても。

 

 

 

私は絶望なんて知らない。本当に味わったことなんてない。

そういうことの意味を、よく知っているだけで、少なくともたかが知れた生き方はしない。

 

 

 

 

私の人生を一体誰が予見できる。何もかもわかったような言い方で、あなたが私のプロフィールを見てこんなものだと言い放っても、私の心はいつだって私のためにここにある。

 

 

 

これは個人主義独我論や社会情勢への警鐘なんかではない。もっともっと初歩的な最初の最初の心構えなんだ。

 

 

 

私には、イメージをイメージのまま言葉にするくらいのことが精一杯だ。どこかのコラムリストみたくかけるなら、きっとそれを生業にしていたに違いない。

けれどこれはコラムなんかでもなく、犯行声明文でもなく、ただの独白だ。

 

 

誰もいない宇宙に向けた独白。

 

 

 

 

寂しいとは思わない。私は宇宙を知っているから。宇宙を感じることができるから。宇宙の中で言葉が反響し木霊しているのを知っているから。

 

 

 

絶望だって宇宙のはじまりからきたのなら、怖いものなんてきっとないはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

私は今宇宙にいる。頭がおかしいと言われても、私にはそれが却って可笑しくて仕方がない。

 

 

 

 

 

 

 

「虚飾は虚飾ではない。絶望は絶望ではない。」

虚飾を捨て切れない人へ。