「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

半年ぶりの

半年ぶりにブログを更新する。

癇癪を起こしそうになるほどの暑さは過ぎて、身を丸くするほどの寒さが少し落ち着いてきた。


懲りもせず、僕は書いている。




過去記事を読むと、半年前の自分は色々と精神的に参っていたんじゃないかと思える。


でも時折、妙に理想的なことばかり言ってみたり、妙に現実的になったりする。ああいう浮き沈みは、内科では診てもらえない類の患者に近い気がする。



そもそも、思い返してみれば、いつの間にか僕は病的な性質を持つようになっていた。いや、病的と言うことで安心したいだけか。


病気であれば仕方がない。社会とうまく折り合いがつかずとも、人間関係が拗れても、「病気のせい」だから仕方がないのです。



そう思いたかった。

けれど、残念ながら僕はそれほど重い病気ではない。恐らく医者に罹っても、せいぜい「軽いノイローゼですね」と言われて安定剤を処方されるに留まるだろう。


あるいは、カウンセリングを受けて、現在を説明付ける過去の因縁を強引に掘り起こされるだけだ。



そんな心理学的な説明をされて納得が行くなら、カウンセリングを受けてみたいとも思う。しかし、もしそんなに簡単に心を分解して示すことができるなら、どうして患者は一向に減らないのだろうか。




この半年を経てもなお、僕は僕のまま変わりがない。変わったことと言えば、年齢が一つ増えたことぐらいか。



大人になるとはどういうことか、未だによくわからない。年を取れば大人になれると漠然と思っていたが、実際には身体が老けて、気持ちが薄らいでいくばかりだ。



侘しいような「秋」が、今の自分なら、これから歳を重ねていけば、そこに吹く風は、どんなものになる。





淡い期待の風が時折吹いた時、息をしていることを思い出す。柔らかな温度を感じると、全身が泡立って目を覚ます。その感覚は本物なのに、どうして偽物を求めるのか。







半年ぶりの

半年ぶりにブログを更新する。

癇癪を起こしそうになるほどの暑さは過ぎて、身を丸くするほどの寒さが少し落ち着いてきた。


懲りもせず、僕は書いている。




過去記事を読むと、半年前の自分は色々と精神的に参っていたんじゃないかと思える。


でも時折、妙に理想的なことばかり言ってみたり、妙に現実的になったりする。ああいう浮き沈みは、内科では診てもらえない類の患者に近い気がする。



そもそも、思い返してみれば、いつの間にか僕は病的な性質を持つようになっていた。いや、病的と言うことで安心したいだけか。


病気であれば仕方がない。社会とうまく折り合いがつかずとも、人間関係が拗れても、「病気のせい」だから仕方がないのです。



そう思いたかった。

けれど、残念ながら僕はそれほど重い病気ではない。恐らく医者に罹っても、せいぜい「軽いノイローゼですね」と言われて安定剤を処方されるに留まるだろう。


あるいは、カウンセリングを受けて、現在を説明付ける過去の因縁を強引に掘り起こされるだけだ。



そんな心理学的な説明をされて納得が行くなら、カウンセリングを受けてみたいとも思う。しかし、もしそんなに簡単に心を分解して示すことができるなら、どうして患者は一向に減らないのだろうか。




この半年を経てもなお、僕は僕のまま変わりがない。変わったことと言えば、年齢が一つ増えたことぐらいか。



大人になるとはどういうことか、未だによくわからない。年を取れば大人になれると漠然と思っていたが、実際には身体が老けて、気持ちが薄らいでいくばかりだ。



侘しいような「秋」が、今の自分なら、これから歳を重ねていけば、そこに吹く風は、どんなものになる。












将来の夢は

子供の頃何になりたかったのか。今でもはっきりと思い出せるのはいくつかのことだけ。

 

小説家になりたい。そう思ったことがあって、気づけば「将来の夢は」の欄には小説家と書かれるのが普通になっていった。

 

それでも一度たりとも本気で小説家になれるだなんて思ったことはなかった。だから、文学にはこれっぽっちも関係のない大学に行き、仕事についた。まずは暮らしていくことができるどうか、そのことに対する不安の方が余程重大なことだったから。

 

人に馴染めるだろうか。社会でやっていけるだろうか。忘れ物が多くて、責任感が薄くて、何をやっても不器用な自分が、社会人としてやっていけるだろうか。人と仲良くできるだろうか。

 

根底にはいつもそんなことへの不安が頭をぐるぐるとしていて、夢を抱くとかそんな余裕もなかった。気づけば小説家という夢は、「夢」という文字は遠い宇宙の彼方の星と同じくらい夢みたいなものへと化した。

 

それでも一度たりとも、夢をバカらしいと思ったことはなかった。だから、人が夢を語っている姿は好きだったし、自分でも夢を思い描こうとすることは好きだった。

 

夢が叶うにしろ叶わないにしろ、「夢」という言葉を忘れたことはなかった。夢何て子供っぽいだとか、必ず持つべきだとかは思わず、ただ何となく夢という言葉には逆らえないような自分だけがいた。

 

 

夢と聞くと、昨晩見た方の夢にもなるけれど、実際の夢の方とその夢の方との違いなんてないようにすら思えた。それは変だけど、何となく、夢というのはそういうものだと思うようになっていった。

 

そんな自分がなぜ改めて将来の夢について考えでいるのか。それは自分でもあまりよく分からない。よくわからないけれど、そういうことを考えなくてはいけないような気がした。

 


夢は儚く散るもの。夢に対してのそういう感性が自分にはあって、きっとこういった感覚は誰にでもあると思う。

 

桜が儚く散る様を見て人が何を思うか、聞いたこともないので分からない。けれど、僕はそれを美しく思うし、その余韻を忘れた頃になってまた桜は新たな花をつける。

 

もし夢が儚く散っていくものなら、またいずれその花を咲かせるのだろう。そんな感慨があって、そう思うと何だかいつまでも花を咲かせる気のない蕾は、季節が来るたび何を思うのかを考えたくなった。

 

隣の蕾たちは一心に花を咲かせている中で、何年も咲かずに蕾のまま終わってしまう自分。そういう自分の運命を知って、一体蕾は何を思うのだろうか。

 

僕はまるでその蕾のようだ。僕にはその蕾の気持ちがわからない。わからないけれど、その姿は何だか寂しそうで、侘しくて、居た堪れなく思う。

 

でも同時にこうも思う。


僕はその蕾を見てきた。他の花が毎年花を咲かせているその中で、たった一つ花を咲かせることができないでいたその蕾を。来年こそは再来年こそはと待ち構えてみても、焦げるような暑さが来ても、凍えるような吹雪に見舞われても、春が来るのをただそこでじっと待っていた。健気に、確かに、力強いその生命で。

 

 


そんな蕾が花を開いた時、その花はどんな色をしているだろうか。どんな形をしているだろうか。見物人の興は買わないかもしれない。あまりよく出来た花弁ではないかもしれない。

けれど僕は見てきた。その蕾が何年何年も堪えてきた時間を。その蕾の健気さを。

 

もしその蕾が花開いた時。僕はその蕾がどんな顔をするのかを見たい。どんな気持ちであったかを知りたい。
僕は一生、その蕾のことを想うだけで、気分が良いに違いない。

本能が怖い

どれだけ一人で生きていくと決めてみても、結局人に触れたいと強く思う気持ちが怖い。

 

誰かを求めて自分の一部にしたいと思う自分の中の支配者の気持ちが怖い。

 

強く強く求めてしまう自分の本能が怖い。

終わりの見えない本能が怖い。

強く強く求め続けて、壊れてしまうほど抱きしめてしまいそうな自分が怖い。

 

 

あれだけ平然な顔をして、淡々と言葉を吐く癖に、ふとしたときに現れてくる獣が怖い。

 

 

胸の奥の方で疼く化け物が怖い。恐ろしいことを簡単に受け入れてしまう自分が怖い。

 

 

ありとあらゆることを簡単になかったことにしてしまう自分が怖い。なかったことにしてまた忘れたように簡単に笑えてしまう自分が怖い。

 

 

 

大切な思い出も大切な人のことも簡単に忘れてしまう自分が怖い。優しさの後に簡単に壊してしまう自分が怖い。

 

 

 

矛盾した心を持つ自分が怖い。怖いと言いながら、相手を怖がらせてしまうことを考える自分が怖い。それでいいよと思いながら、それじゃダメだと思っている自分が怖い。正しいことと間違っていることを器用に使いこなしている自分が怖い。

 

 

 

当たり障りのないことばかり言う自分が怖い。心の内と逆のことを簡単に言えてしまう自分が怖い。簡単に仮面を被って嘘をつける自分が怖い。嘘が怖い。真実はもっと怖い。

 

 

 

何もかも信じれない自分が怖い。人を心底信じていないのに信じていると思い込める自分が怖い。激しい感情で優しい言葉を平気でかけれる自分が怖い。

 

 

応援すると言いながら、壊れてしまえと思えてしまう自分が怖い。裏腹の感情を操ってしまう自分が怖い。都合の良いように解釈して、自分を楽にすることばかり考える自分が怖い。

 

 

 

 

誰かを助けたいと言いながら助けてもらいたいと思う自分が分からなくて怖い。人に嫌われたくなくて愛想笑いを浮かべ続ける自分が怖い。愛想を売り続ける自分が怖い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きるのが怖い。死ぬのが怖い。意味が怖い。無意味が怖い。矛盾が怖い。人が怖い。物が怖い。押し寄せてくる感情が怖い。払いきれない疑念が怖い。緊張の解かない張り詰めた心が怖い。悲しいことが怖い。寂しいことが怖い。不安になることが怖い。消えそうになることが怖い。壊れてしまいそうになることが怖い。触れたら消えてしまいそうな心が怖い。崩れてしまいそうな現実が怖い。全てを投げ出してしまいそうな心が怖い。退屈が怖い。無常が怖い。空虚が怖い。虚しさが怖い。怖さが怖い。何もかも怖い。このよく分からないことが怖い。こんな風にになってしまえる人間が怖い。際限なく落ちていく人間が怖い。あまりに簡単に死ぬ人間が怖い。あまりに簡単に生き延びる人間が怖い。しぶとくて諦めの悪い人間が怖い。ダメになってもダメなままで平気いられる人間が怖い。何もかも正当化して簡単に生きてしまえる人間が怖い。自分のためなら何となくで嘘がつけてしまう人間が怖い。心と裏腹のことができてしまう人間が怖い。正直さと素直な本能が怖い。なんでも綺麗に修飾してしまえる言葉が怖い。何もかもなかったことにできる時間が怖い。それでも平気で周り続ける世界が怖い。進み続ける世界が怖い。知らない顔をして何の意図もなくあり続ける世界が怖い。そんな世界に平気で暮らしてる人間が怖い。人間の人間らしさが怖い。人間だからこそが怖い。そんな人間の全てが怖い。そしてそんな人間である自分が怖い。つまりは自分が怖い。自分の心が怖い。自分の本能が怖い。本能が怖い。そういうことを考えることが怖い。どこまで行っても怖い。怖いことが怖い。終わりがないことが怖い。怖い。怖い。ただ怖い。寒い。寒い。怖くてここはあんまり寒すぎる。気のせいかもしれないけど、あんまり寒すぎやしないか。

自分の居場所なんて無い

自分の本当の居場所をいつもどこか探している。


僕は日本人。日本人として生まれて日本でしか暮らしたことがない。だから海外で生活したことのある人の話を聞くと、何となく自分のいる場所より良いものに思えて、自分の本当にいるべき場所はもっと別にあるんじゃないかという気がしてくる。

 


もっと居心地の良い場所は確かにあるかもしれない。けど、本当に居るべき場所がどこかなんて、分かるとも思えない。この日本に生まれた自分はきっとこれからも日本人として日本で生きていく。そうでなくなったとして、この場所で生まれて育ってきた中で染み付いたことは、洗って流せるようなものじゃないとちゃんとわかっている。

 


どんな場所に居たって、どんな国に生まれたって、それ自体は僕自身に何の関係もないことはわかってる。それと同じように、本当に居るべき場所なんてないこともわかっている。

 

いまが苦しくて、今いる場所じゃないもっと素晴らしい場所に行ったとして、そこで出会えたものがどれだけ素晴らしいとしても僕が僕であることに変わりはない。素晴らしくなかった場所に居た頃が消えるわけでもなく、ずっとあの自分のまま地続きの道を歩き続けていて、歩いている僕もまた僕のままでいる。

 

どれだけのものを手に入れて、どれだけ見た目が変ろうとも、どれだけ気持ちが変ろうとも、そのことに変わりはない。一生僕は僕のまま生きていく。

 

そんな当たり前のことを何度も何度も言っているうちに、そんな当たり前のことは僕だけの話じゃないということに気づいた。

 

 

居るべき場所が見つからないと思っている人にとって、自分の居るべき本当の場所を見つけることはとても大切なことなんだろう。

 


けど、居るべき場所がどこかよりも、そこに自分が必ず居ることを思うと、何となく順番がごっちゃになっていて、違和感を覚えていて。

 

 

日本が特別息苦しいなんてことはあり得ないんじゃないか。どこに生まれても、どんな苦しい世界に生まれても、私たちは目に写るものを見て、音を聞いて、匂いを嗅ぐことができて、この足で歩くことができて、考えることができる。

 

 

自分の生まれてきた場所や自分自身の存在は、運命のように離れがたい事実だけれど、その事実を誰もが背負いながら平等に生きている筈だ。

 


居場所がどうとか、ここよりもっと良い場所を探すとか、それも大事だけれど、そういうことの前に、誰もに訪れるようなことが自分にもあるということを、もっと知りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも、やっぱり自分が生まれた場所を呪うなら。

 

 

その呪いは、誰への呪いだろうか。親か兄弟か、友人か恋人か、職場の人か画面の向こうの見知らぬ誰かか、まだ見ぬ頭の中の誰かか。


どれだけの呪詛が、己の居場所の不遇を呪って吐き出されたのだろう。その数は計り知れず、未だにどこか人々の心の中に巣食っているのかもしれない。

 

そういう呪いが私たちの中にあって、時々心が弱った時に、今いる場所の全てから自分を逃がそうとするのかもしれない。そうやって自分を守ることしかまるで道がないかのように、私たちを誘導するのかもしれない。

 


けれども、もしそんな私たちへの呪いがいくつもあるのなら、そうした呪いを出来ることなら解いてやりたい。何かの言葉で植え付けられた呪いを、暖かいもので全て溶かしてみたい。

 


私たちは所在なく様々な場所を渡り歩く、まるで遊牧民のように歩いてはまた次の場所を目指す。

 


きっと歩き疲れた先で、始まりの場所のことをまた思い出すのだろう。懐かしく思うのだろう。愛おしく思えたらいいのに。

 

 

場所と自分。居場所と自分。自分と他人。人は人。場所は場所。全ては区別できるけれど、ごちゃごちゃしていて、頭が混乱してくる。

 

だからこそ、少しずつ紐解いていく。そのやり方はあんまり単調でつまらないけれど、少しずつ解けた先で新たに待っている景色がある。登っていく山頂の頂きの景色がある。登り疲れた先で目に映る思ってもみなかった景色がある。そういうことを確かに知っていれば、どこに居たって、何も怖くない。どこに行くことになったって、どこに行くべきか分からなくたって、どこに行くのか分からないような時だって、何も怖いことなんてない。不安なことなんてない。気に止むことも、自分を必要以上に傷つける言葉なんてない。

 

 

ただ私たちは各々の道を歩いて、各々の山を登って、それぞれの眼で耳で鼻で足で心で世界を感じている。その奥底に、言葉の繋がりがあるのなら、私たちが歩いている道だってそんなに違うことも遠いこともない。きっとどこかで繋がっている。この言葉がきっといつかは誰かに届くように。

消えてしまいそう

いついかなる時も、気を抜くと消えてしまいそうな自分を堰き止めている。


生活に慣れていくと、気持ちも安定してくる気がする。そうして何となく同じようなどこか違うような毎日が続いて、次第に自分の抱えていた思いや感情など、全て一つの直線になって落ち着いてくると思っていた。そんな曖昧な未来を思っては、そんな普通の生活は到底やって来ないような感覚は消えずに今でも残っていた。

 

生活に慣れていくと、生活が第一になって後の事には時間を割けないほど忙しくなっていく。その喧騒の中では、少年時代に煩悶していたような事柄は大して重要でないことに分類され、僕たちは自分の預金口座を確かめることを大切にするようになった。

 

けれどふとした時に思う。
まだ何も解決などしていない。ただ問題を無視しただけで、他のことに没頭することで忘れようとしただけで、本当は何も終わってなどいない。そのことを思い出しては、何に反省すればいいのか、この気持ちを何にぶつければいいのか、分からなくてただぼんやりと空を見上げる事ばかりが増えた。

 


生活が進んでいくと、気持ちも安定してきて、人の繋がりも落ち着いてきて、居るべき場所が落ち着いてくる。居所が落ち着くと、その居場所を守る事ばかり考えるようになって、気づけば自分のことだって、他人のことだってあまり深く考えなくなる。

 

それでも、人と自分の中に何か大きな存在を感じる時はあって、そういう時は自分自身の出来ることの少なさと進んでいるようで進んでいない自分の浅はかさに嫌気がさして、気づいたら忙しない朝になっている。

 


そうやって恒常的生活は続いてきた。きっとこれからも続いていくのだろう。誰が望まなくとも、望んでなくしてのこの生活。一体誰が何を求めてこんなことをやっているのか。生きているのは自分の方なのに、いつまで経っても分からないまま、途方に暮れてばかりいた。

 


風は何の意図もなく吹いて、何の理由もなく吹いてはただ頬をさらっていく。木は何の意図もなくそこに立っていて、ただ風に揺れて、ただそこにずっと立っている。雨は何を濡らそうという気もなく、ただ地上のものたちに向けて降り続ける。太陽は何を輝かせたいとも思わず、ただ太陽であるがために、大地の全てを照らし続ける。

 

光には何の意図もなく、闇にも何の意図もなく、ただ光と闇は一つで、どちらかだけ一方はなくて、そういうことが普通で正常で、もしかしたら普通でなくて正常じゃなくて、でもそんな矛盾も全てどうでもよくなるくらいに何の意図もなく世界は回っていて。地球は回っていて、宇宙はただそこにあって、星たちがじゃれあっている。

 


そんな場所に生まれ落ちたことにもきっと意味などなくて、ただそこにあるからあって、今もこうしてただここにいる。

 


そんな当たり前で忘れてしまいそうな不安定で安定した事が、悲しいような気もして、どこか安心している自分がいる。そんな心境に言ってあげるべき言葉が見つからなくて、ただ今も心はずっと宇宙を彷徨っている。

 

 

 

 

 

 

春が訪れると、自然の装いは色鮮やかに形を変えて、風の音はどこか優しくなって、太陽も少し心穏やかになって、木々も少し楽しそうで、雨もどこか初々しくて、人々はどこか浮き足立っていて、世界は始まりの音を奏でているみたいに少しだけ柔らかいものに変わって見せる。

 


夏は夏で、秋は秋で、冬は冬で変わってみせて。
そしたらまた春になって、夏になって、秋になって冬が来る。そうやって繰り返されていく、それでも幼木は育って、何世代も前の生命を背負っていて、その梢の先には彼らしい形があって。
太陽だって何十億もの時間を背負っていて、永遠の孤独の中で永遠とも思える時間を照らし続けていて、きっと僕らよりもずっと永遠を知っていて、終わるその時まで永遠の意味を考え続けている。

 


普遍の世界にも、不変でないものがあって。不変の世界は不変ではなくて、不変だからこその変化があって、そういう源流が僕たちにもあって、どういうわけかまだここにあって、今もこうしてここにいて。

 

 

安定した心にも変化はあって、等しく同じ心などなくて、心の安定などなくて、心はいつも不安定で安定していて、それが普遍であっても不変ではなくて。

 

前に進んでいる感覚がなくても、前に進んでいるものは確かにあって、後ろに進むことなどなくて、なんだかんだで進んでしまうのが普通で。

 


そんな普通に嫌気が差すことも普通で、何も感じないのも普通で、いちいち自分の場所を確かめたくなるのも普通で、何も変なことじゃない変なことで。

 

 

 

 

決して簡単には言えないものがあって。きっとそういうものを言い表す言葉を僕らはずっと探している。けれども、どこかで言い表さずとも、感じている。ただ感じていて、そのために空を見上げては思い出している。

 

何の意図もない空を見て、写り込む自分の心を見つめている。自分では自分の心を見れないから、空に託して、心を教えてもらっている。

 

そうやって確かめていないと、忙しさに自分を見失ってしまう気がする。自分が消えてしまう気がする。それが何故だか怖いから、僕らは空を見上げて写り込んだことを大切に胸の奥に仕舞い込もうとする。

 

そうやって見つけた簡単に言い表せないものたちを、いつか言葉にできるその日を願って、祈りを込めて、毎日を生きている。

 


喧騒の中で、忙しさの中であっても、どこかでそのことを忘れずに、しまってあるものを忘れずに生きている。ただ今そこに生きている。

 

 

 

「愛」は世界を救わない

愛を歌った歌や物語は数多くあって、そこではいつも最終的に愛が世界を救うという結末になって幕を閉じることになる。

 

 

そういう夢物語を聞くと、心のどこかで「愛が世界を救うのなら、早く私の世界を救ってくれよ」なんて、揚げ足を取りたくなる。

 

 

確かに、もし本当に愛が世界を救うというのなら、世界はもっと平和になってもいいだろうし、もっと苦しまなくて済む人が増えたっていいはずだ。

 

 

けれど、そう簡単には世界は動いてはくれない。私たちの世界は相も変わらずに、絶望と希望に振り回されてばかりで、混沌としている。

 

 

 

 

 

 

 

 

けれど、それでも。

愛は世界を救うことはないかもしれないけれど、愛が世界にとって必要なことは誰だって分かっていることじゃないか。

 

 

私たちはこの暗い暗いトンネルを抜ける時、一人でただその暗闇に耐えていくだけでは耐えられないようにちゃんと出来ているじゃないか。

 

 

そういう自分を、一人では生きていけない自分をいつも知っているから、愛が世界を救わなくとも愛が必要無いとは言えない。

 

 

仮に救ってくれなくたって、私は「愛」というものが人の心にあるからどこか安心して生きていけるのだということを信じたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人にとって、愛とはどんな風に思い浮かべるものだろう。温かいだろうか。どんな形や色をしているだろうか。

 

 

愛は自分を時に苦しめるだろうか。愛する人に愛を教えられても、その愛する人が消えれば、今度は愛を知らなかった頃以上に苦しくなってしまうものなのだろうか。

 

 

 

「愛など知らなければ良かった。」

 

 

 

そういうあなたの言葉は、本心からのものだろうか。今一度自分にそう問うと、今度は愛がどんなものに思えてくる?

 

 

 

 

 

 

 

愛がどんなものかについて、論理的に突き詰めてみても、愛というもののかたちは一向に変わらない。

 

愛を愛と想い浮かべてみる時、脳裏の情景や、そこから溢れ出す感覚は、一向に変わらない。

 

 

 

もし変わったとすれば、それは愛では無い。愛が失われてしまったわけではなく、それは愛を忘れているだけだ。

 

 

 

 

愛はもっともっと深いところにある。恋愛の「愛」よりもっと深く、何かを支配したり、何かを欲しがったりするものではなく。

 

 

 

それでも、人は愛が足りない時、その隙間を何かで埋められたらと願わずにはいられない。

 

どれだけ意固地になって、自分は愛を与えられない、誰からも必要とされない存在なのだと言ってみても、ふいに差し込む温かな光に目を向けずにはいられない。

 

 

 

どれだけ深く暗いところに漂っていようとも、間違った自分の慰め方をしていても、日々やつれていってもなお、心のどこかでは「愛」がどこからか降ってくると信じている。

 

そう信じているから、私たちは本当に堕ちていくことはない。堕ちたような気がしているだけで、実際はその奥深くの愛の存在に安心している。

 

 

 

「何もかも終わった。意味がない。」

 

 

 

本心からそう言ったつもりでも、つもりにしかならないことが自分ではよく分かっている。心の奥深くで熱を帯びた光の玉のことを知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛は世界を救わない」。愛は世界を救わないかもしれないが、そんなことは、愛を知っていればどうだっていいことだ。そして愛を知らない人などいないのだから、愛はいつもそこかしこにしまってあるだけで、少し蓋を開ければすぐに溢れずにはいられなくなるものだから。

 

そういうものを私たちは誰しも持っていて、そういう不完全で不明瞭で無限大なものを人間が持っているということに、安心を感じて嬉しいと思える。

 

 

そういう「愛」というものの、本当の深さと不思議さに気付くことで、もしかすると救われる人もいるかもしれない。それ自体が力に変わって、私たちの全身を豊かに満たすかもしれない。

 

 

たとえ、死の淵にあったとしても、この可能性を忘れずにいられれば、本当に悲しいことや辛いことなど起こり得ないのではないだろうか。

 

どれだけ、周りから見て救われないように見える人ですら、その人自信が「愛」を知っていてさえすれば、

 

 

 

 

 

 

 

救われない人などいないのではないだろうか。

 

 

 

その人は、愛を知って、愛の奥深さとその意味を知って、それが自分の中に確かにあることを知ってかけがえのない安心を得るのではないだろうか。そこにこそまさしく愛があり、その安心が愛というものではないだろうか。そのことをよくよく考えずして、「愛は世界を救わない」と結論付けるのはまだ早いかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛」は世界を救わない、かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛」は世界を救う、かもしれない。