「生きる」を考える

訳もなく生まれたから、その訳を考えるしかない。

虚無に堕ちろ

落ちる。堕ちていく。そういった急激な心許なさを覚えると、いつまでもそのことが頭から離れない。お前の代わりなどいくらでもいる。凡庸な人間。それどころか少し気を抜けば、凡庸より劣った人間。普通にすらなれない人間。そう誰かに言われている気がしてくる。

 

 

言っているのは自分なのだと、分かっていてももどうすることも出来ない夜もある。次の朝のことを考えなければならない夜でも、抱えきれなくなった思いに胸の奥をきつく掴まれて息が苦しくなることもある。そうした夜を何遍も私たちはいとも平等に超えていく。

 

 

命の有限性に不平等はない。すべての命には終わりが来る。全ては同じところから始まっていて、同じところに終わっていく。そしてそうであれば、生きている今も同じところにある。

 

 

全ては平等に苦しみと喜びを与えないが、生ある生き物は皆平等である。その平等さは、個々人の悩みや感情などはとうに超えた所にある、空と海に由来する。

 

 

私たちが安心できる地点はそこにしかない。

私が私という生にだけこだわってばかりいる間は、常に特別であるかもしれないが、一方でそれは間違った孤独と間違った感傷を生むばかりで、私たちは間違った特別性の中で自分を常に世界観に閉じ込めて監禁しようとする。その結果、人は内側に閉じこもり、外界を遮断し、妄想の世界の中だけで真実を決して見ようとも知ろうともしない。

 

 

けれど、その牢獄の中にいながらも、私たちにはいつも声が聞こえているだろう。これは現実ではない。これは妄想であって、あなたが見たいような世界をあなたが見たいように見ているだけだと。それだけではあなたは安心など決して出来ないはずだと。あなたは安心などしていない。落ち着いて穏やかなように見えても、その内実は堅強な理想で作られた鉄格子であり、景色を受け入れることを見失った盲目の人である。

 

 

目を閉じ、耳を塞ぎ、何も聞こえない方がマシだと言うのなら、その片隅にある心が震えて怯えきっているのはどういうわけか。そのことも見ないようにするのなら、それもいい。それもいい。

 

 

ならばいっそ、塞げるものは全て塞いでしまおう。落ちるところまで堕ちよう。どこまで落ちるのか、その身体と心で試してみるといい。そうすればいずれは底の底に突き当たる。底の底の音を聞いてみるといい。物を落としてみても、聞こえてくるのは、だ。

 

 

無意味、無価値。ありとあらゆる存在の否定が行き着く場所、それが虚無。そこまで行けば、もう何も怖いものなどない。怖い人がいるだけだ。

 

 

 

落ちる、堕ちていく。どこまでも。どこまでも。深い暗い穴底の底まで。そこには音も色も存在もない。ただあるのは、。ただあるのは、ただそれだけ。

 

 

どこまでも堕ちろ、堕ちろ。堕ちていくしかない。もうそれしか道はない。重力に逆らって堕ちていく、流れに逆らって堕ちていく。不自然な落下。速度はない。何もない。何もないままただ、何も抱けないまま、何も感じ得ないままただひたすらに虚無に堕ちろ。虚無に堕ちろ。

 

 

 

ここに来て足がすくむなら、自分が立っている場所が思いの外高かったということ。下がすぐそこならば、堕ちたとてそう変わりはない。

山から麓へ落ち、それが地上から地獄へ落ちたとして、どう違いがある。高さに何の意味がある。どこに立っていようと、落下が始まれば後は赴くまま逆らうままにただ進んでいくだけ。それだけのこと。いずれはこの体も朽ちていく。朽ちればそれは地上に堕ちていく。堕ちていくのは体だけか、果たして心はどこへ行くのか。そもそも心はどこからきたのか。堕ちていく心など初めからあったのだろうか。墜ちるとは、一体どこへ堕ちていくということなのか。

 

 

 

とにかく堕ちていく。虚無が辺りを漂うだすなら。全ての景色が汚されているように感じ、無力さに打ちひしがれるだけだ。自分一人が何かをしたところで何も変わりはしないこんな世界、こんな人間に期待するのはよそう。全ては無意味無価値の茶番であった。暇つぶしであった。私の生も、死も、宗教も哲学も美学も信念も夢も希望も絶望も茶番であった。これ以上何をどう動かしても変わりようがないのは明白だ。この身では何も変えられない、かと言って心はといえば感情と欲望で自分を振り回すばかりだ。周りの人も自分の心に振り回されてばかりだ。それを適当な美学で修飾しているだけで、着飾った服を逃せばみな猿同様。誰が食物連鎖の頂点だって。動物愛護団体。一体どこにそんな自信があるんだ。

 

 

 

虚無に堕ちろ。虚無に堕ちろ。

聞こえてくるのはそのことだけ。

虚無に堕ちろ。虚無に堕ちろ。

全てのことは無意味で無価値だ。

虚無に堕ちろ。虚無に堕ちろ。

全ては自分勝手な妄想と思い込みだ。

虚無に堕ちろ。虚無に堕ちろ。

だって生まれてきた意味も生きる理由も、何一つはっきりしないじゃないか。

虚無に堕ちろ。虚無に堕ちろ。

したいこともなくて、する気だってないならいっそ、死んでしまったって構わないじゃないか。生きている価値なんてないんだ。この世は不平等なんだ。生まれた時から生き易さが決まってるなんて。生きづらい病気を持った人間は、家庭に問題のある人間は、道具のような扱いを受けた人間は、恐ろしく醜い人間は、愛をもらえなかった人間は、この世界の色が濁って見えたとして、その人に責任なんてあるものか。

虚無に堕ちろ。

生きている意味だってないなら。

虚無に堕ちろ。

こんなことになってしまったのだって、理由なんかないんだろ。

虚無に堕ちろ。

そういう人間がそういうことをした因果だって言うなら。

虚無に堕ちろ

そういう人間は、もう終わりにしたって誰も文句なんか言えない。言わせはしない。無理して生きてることもない。

 

 

もしそうなら。

 

 

もう心も枯れ果てて、何の力も湧いてこないなら。

 

 

何もかも嫌気がさしたなら。

 

 

いっそ。

 

 

 

 

 

 

 

 

もう、それでいいよ。

 

 

決して忘れてはならないこと

日々をなんとなく過ごしていると見過ごされる多くの事の中に。決して忘れてはならないようなことが混じっているというのは、よくあることだと思う。

 

 

多くの人がその日その日を生きることで精一杯で、少し気を抜いてしまえばどこか崩れ落ちそうになっていることを私は知っている。

 

 

少なくとも、人の簡単に壊れる脆さを知っている。簡単に堕ちていくことのできる突発さを知っている。そしてその瞬間があまりに一瞬に訪れることも。

 

 

大人になっていくたびに、生き方が雑になって、ものの考え方もざっくりする。それは様々な闘いを経た後の成果でもある、単純な答えの一つだ。けれど、あまりに疲れた心は、あまりに簡単にし過ぎてしまう。そうやって心に蓋をすれば、いずれはその中から溢れ出てくるものがあることをどこかで知っている。

 

 

 

だから時々蓋を開けて、いらないものを吐き出して、中身の液量を調整しなくてはならない。心のメンテナンスだ。私は言葉を吐き出すことで、少しばかり心の容量を軽くする。人によってそのやり方は様々だ。

 

 

日常が安定してくると、思考や行動も安定してくる。けれど、その安心に甘えすぎると、今度はいつまでも同じところに対流することに慣れてしまう。それでは心は鈍り、感じれることも感じられなくなる。

 

 

そんな機会がそこら中に潜んでいる「生活」で、私たちにできることはそう多くはないのだろう。それにこれと言ってやるべきこともないのだ。それがわかっているから、私たちはなるべく忙しくしているのだから。そうでなくても私たちは、この浮ついた大した理由のない毎日を、出来るだけ忘れたいと思っているのだから。

 

 

出来ることなら振り払いたい。妄想に自分を浸すという幸福感で満たしたい。けれど、夜眠りに着くたび、朝目覚めるたび、私は私から逃れられないことを知る。逃れられないどころか、私ははっきりとここにいて、私がこうして考えることも私がなくてはできないという最も普通なことを知らしめられる。

 

 

 

だが、決して忘れてはならないことはそこに含まれている。私たちが逃れられないこの私というものこそ、私たちにとっては変えがたいなによりも確かな真実だということ。

 

 

 

なるべく柔らかい心でいたい。硬く角ばった心は何ものも寄せ付けず吸収し得ない。世界は歪み、色は濁り、美しさは汚される。そんな世界を見ていたくない。

感情の吐露がブームの時代

最近の歌の歌詞は非常に直接的だ。

そして感情的だ。いわゆるエモいと言われるもので、そういった描写が増えたのはここ最近に始まったことでもないと思う。

 

 

そもそも万葉集だとか、あの辺りの時代から色恋沙汰へのあれこれの情や何かと感傷的になる気性は日本人に受け継がれているものなんだろう。

 

 

いわば、純粋な感情の吐露が、今ブームになっていると思っている。

 

 

歌に限らずとも、物語などもそうだけれど、何となく感傷を極めたようなものが多い。お涙頂戴とはよく言うけれど、そういう安い空気をどこかに感じて白々しい気になって時折我に帰ることがある。

 

 

同じように白い顔で思っている人もいるだろう。けれど所詮人間。所詮人間とは、所詮人間ということだ。それ以上も以下もない。感情を消すことなどできない。押さえつけることもできない。押さえつければ爆発する、不満が充溢して精神のタカが外れておかしなことになる。ならばいっそ吐露してしまえばいい。それが健康的で人間らしさである。そういうのが今の風潮だと思う。

 

 

そして、全ては人間らしさとか所詮人間とか言うことに集約されて、幕を閉じてしまう。誰もその先後を考えない。

 

 

 

みんながみんな自分を見ている。自分のことばかり考えている。利己主義などという次元でなく、それはもう一種の信仰と言ってもいい。

皆が皆、自分の価値観を吐き出すことに何の躊躇いもない。それどころか、却ってそれが大胆な結果であればあるほどに評価されるから抜け出せない。それが良いものだと思うしかない。そういう世界に生きている所詮人間ならば。

 

 

けれど、一歩外に外れて、道端に倒れ伏している老人を見たり、雲の動いていることを思い出したりすると、段々と自分の価値観というのが白けてくるのがわかる。

 

 

自分が、私が、僕が俺がと皆好き勝手に言うが、果たしてそれほど自分のことが大事か。

自分に大事なことなどあったか。

 

 

 

それでもあちこちで、私の苦しみをわかってだとか、自分と共感して欲しいとか、そうやって人が依存し合っていくことが必要だという論調が交わされる。空気がある。その空気が私の思い違いならまだしも、実際はどこかで私たちは自己を認めてもらうことで充足しようとしていることを完全に否定しきれない。

 

 

 

かと言って全ての根本である自我を消そうとすれば、トルストイのような最後を迎えることになる。それは嫌だと言っても、どうすればという展望もない。

 

 

ならば好き勝手に生きればいい、となる。そうやってみんな好き勝手に自分を発信して、自分を売り込んで自分を買ってもらおうとする。これではまるで、身売りと同じだ。それは言い過ぎとしても、そうした自尊心や承認欲求と引き換えの売買の安易さを感じずにはいられない。

 

 

 

それ自体が個人の自由として、ただ個人の自由と個人の自由がぶつかり合い、共感し合うことばかりで満たされることに進歩がある気がしない。進歩するのが科学の方で、このままでは享楽的な万葉集の世界から一向に抜け出してこない。

 

 

でも、それでも良いと思うからみんなそうしているのだろう。そうやって享楽的に暇を潰していくことが良いと思っている。それもまた一つの真実かもしれない。それにそう思う人の気持ちもわかる。けれど、享楽はいずれ終わる。終わるその時になって、都合よく纏めてしまおうという魂胆は解せない。

 

 

 

人は自分の内側に引きこもる。その傾向がより顕著になってきたように思う。

けれど、所詮人間。いずれは自分は五体満足であって五体不満足であることに気づく。

そうすると、もう俺が俺がとは言ってられなくなる。そんな幼稚なことばかり言っていては、進歩などしない。そして進歩をしたという思い込みを知って、そしてようやくそこで何かを見る。進歩というものを知る。そういう葛藤を経なければ、どんな感情の吐露も、ただ自分を慰め共感者を募り依存症患者を増やすものにしかならない。

 

 

 

そしてそれもまた一周する。
同じように気付く。繰り返していく。するとまた違うものが見えてくる。

 

 

 

 

 

感情を吐露することなら動物にでもできる。どれだけ細かな感情表現をしようが、技巧的にしようが変わりはない。そこには子供の純粋な美しさのようなものはあるけれど、子供の心のままでは何もわからないままだ。

もし目と耳があるのなら、そこで見えているものと聞こえているものがあり、そこに自分があるということを、遠巻きに見るような心持ちを持てると、そこに何かがある。

 

 

 

 

ただ、結局は時間というものがあるとする世界ならば、いずれ勝手に変わっていくものなのだろう。ブームが過ぎれば、また次のブームがやってくる。人間も阿呆ではないから、その連続から何かを見出したいと、本当の安息を求める気になるかもしれない。ならないかもしれない。つまりは、そんなことはもうどうでもいいことなのかもしれないということになるのかもしれない。どうとも言えない。けれど、どうとでも言える。

快感にはほど遠い幸せ

幸せとはなんだろうか。禅師に言わせればそんなものはない。けれど、ある意味ではある。

私たちの使う言葉の意味の中では

 

 

しかし錯覚かもしれない。快感は幸せに似ているけれど、快感と幸せの違いをはっきりと自覚できているだろうか。

 

 

快感を産むのは、性か、それとも強い思い込みか。はたまたそれは激しい科学的作用か。

 

 

いずれにせよ、快感は無くならないらしい。それを追い求める人もその価値観も、目に見えるところにいつもあってしまう。

 

 

時々目が眩むような快感が押し寄せる、瞬く間にそれは消え去って、幸福とはほど遠い瞬間が訪れる。快感とは幸福の対義語だと、そう言うことだってできるはずだ。それほどまでに順序が逆転している。

 

 

私たちが心に隙間を感じてそこに寂しさを共感するなら、そこに埋まるべきものは幸せになるのだろう。あるいは全てを超越したもの、存在、ゆとりを持てば心に隙間があろうがなかろうがどうだっていいと禅師なら言うだろう。

 

 

だが所詮私たちだ、所詮と言うからこその私たちだ。その私たちはやはり執着するのだろう。その穴を埋めるための作業に。そこになるべく綺麗なものを置くとすれば幸福になるけれど、次第にそれは変化する。

 

 

幸福を求めるはずが、いずれは快感の虜になる。鼻から目的を誤ったこと。幸せになりたいことが誤りだと、誰が思うだろう。そうだ、幸せを得たいと思う心がもう既に詫びしく寂しい。それはどれだけのものを得ようと飽きたらないと自分で言っているのと同じだ。

 

 

そうやって求めていく。果てのない一人旅は、享楽を極めていく。惰眠が増え、堕落が増え、日に日に私の太陽は暗雲に翳る

 

 

幾星霜の時が流れて、どれだけの快楽が貪られてきただろうか。立ち止まることなどないように思えた快楽の進撃も、いずれは波立つ海が鎮まるように、平常を思い出す

 

 

 

平常の中に見出すのは、平穏か何か。確かに快楽にはない何かがそこにあることを瞬時垣間見る。けれど、その正体は掴めない。

 

 

 

仮に私たちの体がもっと不自由だとして、何をするにも制限がかかるばかりか、何一つ自分一人ではこなせないとなったとしよう。

すると見えるのは自分ではない。自分の我執などではない。そんなものは十に過ぎ去って、はっきりと目に映るのは現前にある事実だ。

 

 

私は一人では生きていけない。そんなことが言いたいわけでもなく、誰かの支えがなくてはいけないということでもない。ただ、明らかにそこには何かがある。自分一人では何もできない自分という姿と、それを成り立たせようとする人の姿がある。そして成り立つものだ。どうにかなるものだ。どんな人であれ。

 

 

 

仮に私たちが五体満足で何にも縛られないとしても、そこにあることに何ら違いはない。ただ、そこには何かがある。幸福や快楽といった、凝り固まった角ばった言葉よりも強烈な体感がある。その体感は言葉より重く、激しく穏やかである。

 

 

 

そして、そこにこそ快感にはほど遠い幸せと呼べるものがあるのではないかと思う。

分別を極めると寂しい人になる

「分別をつけなさない」

そういう事を、一度も言われずに生きてきた人がいれば、それはとても幸運な事だと思う。

なぜなら、この世界は分別に満ち溢れ過ぎているし、そんな場所に長くいれば普通は誰でも分別というものを意識せずにはいられないからだ。

 

 

 

分別というのは、色々な捉え方のできるものだが、簡単に言えばあっちとこっちの間に「線を引く」という事だろう。

 

 

線引きという言葉があるけれど、まさしく私たちは真っ当に生きようとするとどうしてもその線引きを何度も行わなければならない状況に遭遇する。

 

 

例えば、良い人と悪い人という線引き。あの人は良い人だけど、あの人は悪い人、あまり良くない人、良い人そうだけど実は悪い人。

 

 

その線引きの細かさは、時間を追うごとに精緻になっていく。ある人は、その線引きの細かさを「分別のある人」と言って喜ぶ

 

 

 

そもそも分別のある人間というのは、違いがよく分かる人でなくてはならない。何が良いことか悪いことか分からなければ、良いことをしようにも何をすれば良いのか分からないからだ。

 

 

つまり、褒められる分別のある人というのは、物事の良し悪しを十二分に理解している人であって、それ故に良い事を為せる人である。

 

 

もし、分別はありながらも、敢えて悪いことをしている人がいれば、それは分別の無い人ということになるだろう。

 

 

 

だが、そんな理屈はあまり今回の話とは相容れない。何故なら、私が分別についてどれだけのことを言っても、それは分別であることに違いなく、その精細について語ろうが、それには際限がないからだ。

 

 

だから分別の幅は個人に委ねるとして、何が言いたいかというと、些か突飛なようだけれどこうなる。

 

 

分別を極めると寂しい人になる

 

 

 

分別を極めるというのは、分別に執着すると言ってもいいかもしれない。分別に執着すると言ってもピンと来ないかもしれないが、例えばこういうことだ。

 

 

昔からの友人と久しぶりに話をした。いつも通り仲良く話をすることができたが、彼が言った一言が帰り際どうしても気にかかった。昔の彼ならあんな言葉は使わなかったはずだが、しばらく見ないうちに随分と変わってしまったらしい。もしかするとあれが本当の彼なのでは無いか。あれが彼の本性であるなら、私はあんな言葉を使う人間と友人であり続けることはできない。

 

 

これがどう分別なのか。よくわからないような例しか浮かばなかったが、つまりは、彼と付き合い続けることはできない、というのが分別である。そんな粗悪な言葉遣いをする人間とは友人でいられない、これも分別である。

 

分別とは「死後の世界を見たことがないし証明できるものもないから、死後の世界など信じない」というような類の総称だ。

 

 

つまりは、分別をつけた段階で、「彼が何故そんな言葉遣いをしたのか」、「死後の世界はあるのか」という可能性は完全に絶たれてしまったということだ。

 

 

彼との関係性は失われ、彼の中に持ち得る長所を見出す機会を失い、理解できない言葉を使う人間との理解の時間は失われた。

死後の世界を信じ善人であろうと努める機会は失われ、亡き人の存在を想像し力を得る機会を失った。

 

 

この損失の大きさを損得勘定で考えるとおかしなことになる。ただ、分かりやすくそう考えてみても、分別というのは時に、そしてほとんどの場合は「機会の損失」と結びつくものだ。

 

 

例が悪いと思うのなら、自分でいくらでも思い浮かべてみるとわかる。現に選択は分別を基に行われているのだから、全ての事象に携わっている。

 

 

しかし、そんな損失が一体どうなる。悪いと思った人間とは付き合わない方が却って得じゃないか。むしろ、あるかどうか分からないものを信じる方が余程不健全じゃ無いか。

 

 

こう分別すれば、直ちに全て一掃される。ありとあらゆる可能性の芽が摘まれる。

 

 

 

分別を極めるということは、徹底的に自己と他者との区別をつけるということだ。けれど、相手を通して自分を知ることが必然なら、相手と自分の境界などというのは曖昧だと知って然るべきことだ。自分だけで自分が成り立っていない、自分だけでは理解できない自分だとわかっているのなら、全てに区別がない状態の方が余程普通のことではないか。むしろ区別をつけてしまうから、何もかも別にするから自分というのがいつまで経っても「個人的価値観」から抜け出せない空虚な存在に思えるのではないか。

 

 

 

つまりは、分別はいずれ寂しいことになる。

どうせなら、自分に通っているものあなたに通っているものがどう繋がっているのか、そういう思いで過ごしたい。

 

 

 

 

 

直感とそのさらに奥深く

人の顔を見て、直感的に何か嫌なものを感じることがある。あるいは良いものを感じることがある。

 

 

それが何を意味しているのか、その意味の真意はよくわからない。例えばそれが心理学で言うところの「他者は自己の鏡」であるとするなら、私は彼彼女の嫌な部分に共鳴したということで、その嫌さは自分から来るものだということを言われても、何だか分かったようなわからないような。

 

かと言って、その直感が必ずしも正しいと言える論理的根拠も薄い。それが無意識に仕舞い込まれたデータによるものだと言っても、いまいち分かったようでわからないような気になる。

 

 

 

こうした、ありとあらゆることに対して覚える啓示的な思いつきを人は「直感」と呼んでいるが、果たしてその性質がどれほどのものか考える人はあまりいないだろう。

 

 

よくよく考えてみるとおかしな「現象」だ。

どこからともなく現れたこの直感は、当たることも多ければ、外れることもある。けれども、どうしてか私たちはその直感を完全には無視できない。どこかその直感の余韻は後を引いて、もし従わなければ少なからず私たちの中に蟠りを残す。

 

 

 

そんなものは非科学的で何の論拠もない、盛り立てるだけ無駄な話だと現代の若い人は言うだろう。あるいは、何か都市伝説に向かう姿勢と同じくして興味だけで娯楽的に捉えるだろう。

 

 

しかし、長く生き様々なことを経験し、様々に人と関係し、自然に触れた時の感性を忘れずにいると、そんな悠長な面持ちではいられない直感というものに出会う。

 

それは直感がただの直感でないことを知ったからこそそう思うのであって、直感がまさに自分の全く予期せぬことを思いつき、それによって自分の全く深いところからそれが来ているということに驚いた者にしか感じ得ないものなのだと思う。

 

 

世の中ではよく「直感を信じるか信じないか」ということが議論される。科学は直感を、無意識下で行われる高度な情報処理の結果であるとしている。そうした論拠でもって、信じるという人もいる。かと思えば、その高度な情報処理というものの証拠の脆弱さを根拠にして私は信じないという人がいる。

 

 

概ねそのような論拠と論拠の言い争いの末、大抵は「よくわからない」ということになって、終いには「どうでもいい」となってしまう。

 

 

事実、現代の科学が万能となった時代においてて、直感とか言う正答率の低いものは、統計学に劣る技術」であって、そんな精度の低い技術など誰も用いらないということになってしまう。

 

 

だが、事実を重ねて言うのなら、その統計学というものは、巨大なサンプルの中での傾向を「個人」の事例を無視してざっくばらんに示したモノにすぎない。あれは本来正解でも何でもなく、一人の人間がやる当て水量の精度が多少高いとか言ったことに過ぎない。

 

 

そうなればむしろ、直感の方が、「個人」の事例を多分に踏まえ、かつ非常に個人的な状況において柔軟性を持った情報処理だと言える。

どちらが上かどうかということはわからないが、どちらも当て水量であって、片方は「全体の傾向」を、片方は「個人の経験」を、そして対象はあくまで「個人の状況」からであるということははっきりしている。つまりは、私たちが信奉している科学というのも、それほどわかったような代物だとは言えない。それにもしかすると、「どうでもいい」とすら言えるかもしれない。

 

 

直感と科学、どちらもはっきりしないものなら、結局はどちらのことも考えるにどうでもいいと思われて仕方がないのかもしれない。

 

 

けれど、その曖昧さの裏には、はっきりとした思い込みや不明確さが浮かばれる。ということはやはり、その思い違いについてもう少し慎重になるべきであるとは思う。

人生は壮大な暇つぶし

日々の仕事や生活に追われて、週末どこへ行こうか何をしようかと考えておきながら、いざ週末を迎えると何をしたいのかわからなくなる。

 

 

あれ、もしかするとしなくてはならないことなど何もないのではないだろうか。

暇。退屈。という言葉が頭の中をぐるぐると回り続ける。

 

 

私たちは、常に何かをしなければならないと思おうとしている。そうすることで、自分が暇になり退屈を覚えないようにしている。

 

 

けれど、少し生活の手を止めてみると気付く。本当にやるべきことなんてない。

 

 

自分自身の人生に大いなる意味なんてものは存在しない。そもそも生まれた理由すらないのだ。自分の人生には意味もなければ、自分のやることに意味があるはずもない。

 

 

自分や宇宙の存在の謎に行き着くと、結局は人生というものは壮大な暇つぶしであると思える。事実、何の目的もなく、意味もなく続けられる人生とやらは、膨大な夏休みを予定で埋めようとする暇つぶしと同じだ。

 

 

それでも意味はないことをただ続けてはいられないから、私たちはそこに意味を付与する。時にその壮大な暇つぶしを大きな問題として取り上げ絶望し、虚無に浸る。それすらも暇つぶしである、ということは忘れて。

 

 

でもどこかで私たちは、全ては暇つぶしなのだと感じている。この激情も煩悶も、暇から逃れるために生まれたものなのだと。

 

 

では、私たちは一体何をやっているのだろう。何をやる必要もなく、どんな制限も与えられた意味もない。これが暇つぶしであるなら、何をやっていたって構いはしないはずだ。

 

 

 

しかし。しかし、暇つぶしであるような生ならば、無理をして生きている必要もないのではないか。

 

 

無理をしてまで生きる必要はない。ただ依然として人生は暇つぶしであるから、あなたが死んだとして、それは何ら意味もなさない

 

 

それに、理由はわからないけれど生まれたからこうして生きているわけであって、生きている限り死んでいないというだけだ。

 

 

そしていつかは死ぬのだから、それを早めたとして、ただ単に暇つぶしの時間が減るというだけだ。あなたにとっては壮大な数十年も、宇宙にとっては砂の一粒よりも小さい。

 

 

虚無を感じるだろうか。この宇宙大の世界の中の小さな小さな自分の生に。

 

 

けれど、その宇宙から見たらこれほど小さな生が、宇宙を意識できることもまた不思議だ。小さな取るに足らない砂粒以下の私たちが、宇宙を考える時、心の中に確かに宇宙を思い浮かべているのだから不思議だ。そして小さい者ながら、その壮大さを確かに理解しているのだから。

 

 

 

こんなことを考えるのだって、贅沢なものだ。

暇を持て余している。そしてその暇が与える贅沢さに、気が狂いそうになりながら、それすらも暇つぶしなのだと思うと、全くこの小さな者の生に驚嘆し嘆息し笑うしかなくなってしまう。